伝記
ダンカン1世は、1034年から1040年までスコットランド王(アルバの王)であった人物である。「病弱な者」を意味するアン・トゥイルガラハの渾名でも呼ばれた。ゲール語名はドンチャド・マク・クリナーンといい、1001年に生まれ、1040年8月14日に没した。シェイクスピアの戯曲『マクベス』に登場する「ダンカン王」の歴史上のモデルとして知られる。
母はマルカム2世の長女ベソック、父はアサル領主でダンケルドの大修道院長クリナンとされる。近世にはこれと異なる系譜を唱えた歴史家もいたが、近年の書物では先の説が通っている。1018年にスコットランドの南に隣接するブリトン人のストラスクライド王国の王位を継いだとする説もあり、オックスフォード英国人名事典はこれを支持するが、現代の歴史家の多くは退けている。1034年11月25日に祖父マルカム2世が没すると、目立った反対もなくその跡を継いだ。あらかじめ後継者として認められていた可能性もあるとされる。この即位によって、現在のスコットランドとほぼ同じ領域がひとりの王のもとに入った。
妻については、1030年頃にノーサンブリア伯シューアドの妹シビルと結婚したとされる。一方で、初期の王名表の異本はゲール語名のスーテンを妻の名としており、14世紀の年代記家ジョン・オブ・フォーダンは、妻がシューアドの親族で、のちに息子マルカムの復位を助けたのではないかと書いた。1688年に著したフレデリック・ファン・ボッセンは、ダンカンが二度結婚し、最初の妻はノーサンブリア伯の娘、のちの妻はダブリン王の娘だったとしている。この二つは食い違うとされる。子には、のちに王となった長男マルカム3世(1031年から1093年)、同じく王となったドナルド3世(1033年ごろから1097年)、そして確かではないが三男かとされるメールミュアがいる。メールミュアはアサル伯家とオークニー伯家の祖であるが、どちらも断絶した。マルカム3世は、1058年にマクベスの継子ルラハを殺して王位を奪い、1093年まで在位した。
治世の初めは穏やかだったが、これは王が若かったことと関わるのかもしれないといわれる。マクベスはダンカンのもとで「ダクス」、すなわち戦争の指導者という意味の地位にあったと記録され、玉座の背後の実力者だった可能性が指摘される。ダンカンは1039年に大軍を率いて南へ向かい、イングランド北部のダラムを包囲したが、遠征は惨敗に終わった。ダンカン自身は生き延びたが、これにより重臣たちの信望を失ったとされる。翌年、ダンカンは軍を率いて北のマクベスの領地モーレイへ向かった。討伐の遠征だったらしい。そこでエルギン近くのボスナゴーワン、いまのピトガヴェニーで、マクベス率いるモーレイの兵に討たれた。日付は1040年8月14日であったと考えられている。従弟のマクベスに殺されたと伝えられ、遺体はまずエルギンに葬られ、のちにアイオナ島へ移されたと信じられている。
シェイクスピアの戯曲『マクベス』(1606年)の中では、ダンカンは年老いた王として描かれ、眠っているところをマクベスに殺される。史実のダンカンはむしろ若い王だったようだ。また、ナイジェル・トランターの歴史小説『王マクベス』(1978年)では、ダンカンはマクベスを恐れて毒殺を図り、失敗すると軍を率いて攻める陰謀家として描かれる。マクベスは自衛のために戦い、ダンカンに傷を負わせ、血友病だったダンカンは出血のために死ぬ。
同じ年に亡くなった人物
- イブン・ハイサム (1040年没)
- ハロルド1世 (イングランド王) (1040年没)
- タンクレード・ド・オートヴィル (1040年代没)
- ジョフロワ2世 (ガティネ伯) (1040年代没)
- マヌーチヒリー・ダームガーニー (1040年)
同じ地域に関係する人物
- チャールズ・ゴードン=レノックス (第6代リッチモンド公爵) (1903年没)
- ラムゼイ・マクドナルド (1937年没)
- ドナルド2世 (スコットランド王) (900年没)