伝記
ハーデクヌーズは、デンマーク王(在位1035年〜1042年)であり、イングランド王(在位1035年〜1037年、1040年〜1042年)でもあった。クヌート大王とノルマンディー公の娘エマの間のただ一人の息子で、生年は1017年から1019年ごろとされる。父は最初の王妃エルギフを差し置いてエマと結婚しており、後世の文献には、エマとの間の子をエルギフとの間の子より優先することに同意していたとある。1023年には、母とともに殉教者の遺体をロンドンからカンタベリーへ移す儀式に加わって重要な役を担い、伝記作家ホワードは、彼が父の継承者と見られていた表れだとする。
1020年代、デンマークはノルウェーとスウェーデンの脅威にさらされていた。父は、義兄弟のウルフ伯を摂政として、8歳のハーデクヌーズを次期国王としてデンマークに送った。しかしウルフ伯は、父の権威なしにデンマーク諸侯に彼を王と認めさせ、反撃せずに父の支援を待ち続けた。1027年に父が艦隊を率いて帰還し、ウルフ伯を殺害したが、彼は若年を理由に許された。父は侵略軍を討ち、1028年にイングランドへ戻ったので、ハーデクヌーズはデンマークに残って統治した。
異母兄スヴェインが治めていたノルウェーでは、圧政に反発が高まり、1035年に聖オーラヴの子マグヌスが侵攻して、スヴェインはハーデクヌーズの宮廷へ亡命した。ハーデクヌーズは父に支援を求めようとしたが、同年11月、父はすでに没していた。ハーデクヌーズはクヌート3世としてデンマーク王となったが、国を離れられなかったため、異母兄ハロルドを摂政としてイングランドに派遣し、エマとともに統治させた。1037年にハロルドがイングランド王に認められ、エマはフランドルのブルッヘへ亡命した。アングロ・サクソン年代記は、彼がデンマークに長居しすぎて、イングランドの民に見放されたと記している。
ブルッヘのエマは、息子を王位に就ける計画を進め、自身をたたえハロルドを非難する書物『王妃エマ礼賛』を編ませた。書中では、ハロルドが1036年に、エマの子アルフレッドの殺害を計画したとされ、ホワードは、これが遠征をためらうハーデクヌーズを後押ししたとみる。1040年にハロルドが病死すると、イングランドの使者がフランドルへ来て即位を要請した。
1040年7月17日、彼は母とともに62隻の船でサンドウィッチに上陸した。抵抗はなく、万一に備えた征服者としての上陸だった。船の漕ぎ手への給与のため、21,000ポンドものデーンゲルドを徴収し、人々に嫌われた。兄アルフレッドの仇討ちとして、評議員の賛同を得て、ハロルドの遺体を掘り起こし、首を切って下水道に投げ捨てさせた。アルフレッド殺害に関与したとして告発された貴族ゴドウィンは、ハロルドの命令だったと主張して罪を許された。1041年には、重税に反発したウスターの民が徴税役人を殺害したため、王は伯爵に街を焼き払い住民を殺すよう命じたが、住民の大半はセヴァーン川の中洲に避難していた。また、ノーサンブリアの伯エアドウルフの殺害に王が関与したともされ、年代記は誓い破りと記す。一方、教会には寛大で、ラムジー年代記は気前のよい性格をたたえる。
結核の発作に苦しんでいたとされ、1041年には異父兄エドワードを亡命先から呼び戻した。おそらく後継者に指名したのであろう。生涯結婚せず、子もなかった。1042年6月8日、廷臣の娘の結婚式で乾杯の最中に立ったまま倒れて痙攣し、そのまま一言も発せずに世を去った。死因は脳溢血と推定され、大量の飲酒が原因とされる。
同じ年に亡くなった人物
- Abu al-Qasim Muhammad ibn Abbad (1042年没)
- ギーサ・トルケルズドッティル (1042年没)
- ミカエル5世 (1042年没)
- ドメニコ・フラバニコ (1042年没)
同じ地域に関係する人物
- リチャード・ガン (1961年没)
- Thomas Caverhill Jerdon (1872年没)
- テレンス・マクスウィニー (1920年没)
- ヘンリー・テイト (1899年没)
- ジョン・ゴス (作曲家) (1880年没)