伝記
ユーグ4世は、フランス北西部のメーヌ伯である。1036年から1051年3月25日に亡くなるまで伯の座にあった。父はメーヌ伯エルベール1世で、ユーグ家(ユゴニド)の一族に属する。
父が亡くなった1036年、ユーグはまだ幼く、生年は1018年から1022年のあいだと推定されている。父の死は1032年から1035年のことだったとする説明もある。そのため、大叔父にあたるエルベール・バコンが摂政をつとめた。エルベール・バコンはアンジュー伯家を支持する立場だった。これに対し、ル・マンの司教ジェルヴェ・デュ・シャトー・デュ・ロワールは、アンジューと対立するブロワ家の側に立っていた。摂政と司教は衝突し、民衆の会議によってエルベール・バコンは追放された。ジェルヴェはそのうえでユーグが成年に達したと宣言し、ブロワ家のベルトとの結婚を取り決めた。これに対してアンジュー伯が報復してメーヌに侵入したともいわれ、この時期のメーヌはアンジュー、ブロワ、さらにやがてはノルマンディーの野心にさらされ、封建的な無秩序が広がった。
ユーグは、これまでの伯とは違って司教の助言に従った。ジェルヴェは、前任者でおじにあたるアヴェスゴー・ド・ベレームがアンジュー伯家の支持者だったのと異なり、ブロワ伯家と結んでいた。ユーグはおそらく司教を支える形で、ロワール谷でアンジュー伯ジョフロワ・マルテルと何度も戦ったとされる。
ユーグは1046年ごろ、ブロワ伯ウード2世とエルマンガルド・ドーヴェルニュの娘ベルトと結婚した。ベルトはブルターニュ公アラン3世の未亡人だった。2人のあいだには、のちにメーヌ伯となるエルベール2世(1062年没)と、1045年ごろに生まれて1063年に亡くなったマルグリットがいた。マルグリットはロベール・クールトゥーズと婚約していた。ロベールはのちのノルマンディー公で、ウィリアム征服王の子である。
ユーグの死の直後、ジェルヴェはメーヌから追われてノルマンディーに避難した。ジェルヴェがル・マンの司教座を強めたことは、結果としてメーヌ伯の地位を低下させ、伯領がアンジューとノルマンディーの支配領域に吸収されていく一因になったとされる。
同じ年に亡くなった人物
- 畢昇 (1051年没)
- ドロゴーネ・ダルタヴィッラ (1051年)
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