伝記
ハインリヒ3世は、ザーリアー朝の第2代ローマ王(ドイツ王)で、在位は1028年から1056年、1046年12月25日に神聖ローマ皇帝として戴冠した。黒王とも呼ばれる。初代のコンラート2世と、シュヴァーベン公ヘルマン2世の娘ギーゼラの子として1016年または1017年に生まれた。1024年に父が国王に選ばれると、父は息子に幼いころから英才教育を施した。1026年にはバイエルン大公位、1038年にはブルグント王位とシュヴァーベン大公位を与えられ、父とともにイタリア遠征にも加わって、王になる前から若い指導者としての経験を積んだ。ドイツ君主として史上最大の権勢を誇り、イタリアとブルグントへの宗主権を持ったとされる。
彼が王に即位した時点で、帝国内に並び立つ勢力はなく、これまでの王が王位の承認を得るために各地を巡行したのと違い、巡行は王の威光を示すものとなった。王位に就いて間もなく、バイエルンとシュヴァーベンの大公位を手放して貴族に授け、在地に基盤を持たない貴族を任じることで、大公の地位を官職化した。多くの所領を教会に寄進して地方勢力の経済基盤を弱めもした。この試みはロートリンゲン大公との軍事衝突を招いたが、公領を分割し、上ロートリンゲン公位をシャトノワ家に、下ロートリンゲン公位をアルデンヌ家に与えることで解決した。一方、ザクセンにはビルング家が大公位を世襲しており、基盤のないハインリヒは深く介入できず、在地貴族と対立した。
1046年からは、乱れたローマ教会を正すため、イタリア遠征を行った。1045年、教皇ベネディクトゥス9世の乱れた私生活に端を発する暴動が起き、シルウェステル3世が教皇座を奪った。ベネディクトゥス9世はすぐに地位を回復したが、その教皇座をグレゴリウス6世に売却し、しかも売却後、シルウェステル3世も、売った当人までもが復権をもくろむ有様であった。敬虔なキリスト教徒であったハインリヒは、スートリ教会会議で3人の教皇を罷免して混乱を収めた。ハンブルク・ブレーメン大司教アーダルベルトを教皇に擁立しようとしたが、彼が北方布教を理由に拒んだため、バンベルク司教スイトガーを教皇クレメンス2世とし、その手で戴冠されて皇帝となった。この時、追放されたグレゴリウス6世に付き添った一人が、のちのグレゴリウス7世となる修道僧ヒルデブラントであった。クレメンス2世が1047年10月に、後任のダマスス2世もわずか3週間で亡くなると、自らの縁者であるトゥール司教ブルーノを教皇レオ9世とした。レオ9世はシモニアと聖職者の妻帯の廃止などの教会改革に力を尽くした。
1050年に待望の長男ハインリヒ4世が生まれ、1053年には、わずか3歳の彼をローマ王に選出させて、継承の準備を進めた。1053年にレオ9世がノルマン人との戦いに敗れて亡くなると、アイヒシュテット司教ゲープハルトをウィクトル2世として教皇に就け、1055年にはフィレンツェで教会会議を開き、教皇領の譲渡を禁じた。同じ年、イタリアで勢力を広げた上ロートリンゲン公ゴットフリート3世に圧力をかけて逃亡させ、その妻ベアトリクスと義娘マティルデを捕らえた。1056年、病に倒れ、まだ幼い5歳のハインリヒ4世の庇護を、遠縁でもある教皇ウィクトル2世に求め、ゴットフリート3世には妻子と領地を返して、10月5日に38歳で世を去った。遺体はシュパイアー大聖堂に葬られた。のちの叙任権闘争のなかで、皇帝を教会改革の妨げとする見方は誤りをはらむとされ、彼のように、皇帝が改革の推進役となることもあった。
同じ年に亡くなった人物
- テオドラ (東ローマ女帝) (1056年没)
- シュムエル・イブン・ナグレーラ (1056年没)
- Herman II (1056年没)
同じ地域に関係する人物
- エレオノーレ・フォン・アンハルト=ツェルプスト (1681年没)
- カール・アドルフ・フォン・バセドウ (1854年没)
- アーデルハイト・ツー・シャウムブルク=リッペ (1875-1971) (1971年没)
- ヘンリエッテ・カタリーナ・ファン・ナッサウ (1708年没)
- カスパー・ポイツァー (1602年没)