HISTORICAL PERSON · 1900年没

ナイム・フラシャリ

アルバニアの詩人・活動家。オスマン帝国領フラシャに生まれ、役人を務めながら文筆に励んだ。兄のサミやアブデュルもアルバニアの革命家として知られる。

生涯
1900年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / イスタンブール)
出生地
アルバニア共和国(Frasher)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

ナイム・フラシャリは、1846年5月25日、当時オスマン帝国の一部だった現在のアルバニアのフラシャ村で生まれた、アルバニアの詩人であり、知識人、役人、活動家である。裕福な一家で、イスラム教のベクタシュ教団に属していた。地主で軍の指揮官でもあった父ハリドと母エミネの8人の子の一人で、著名なアルバニア人革命家のサミとアブデュルは兄弟にあたる。トモル山の南斜面にある村で育ち、アラビア語、オスマントルコ語、ペルシア語を幼少期から手ほどきされ、ベクタシュ教団の修道場で、当時の一般的な科目も学んだ。1865年に一家はヤニナに移り、ナイムとサミはゾシマイア学校に入学して、古典ギリシア語、イタリア語、フランス語や啓蒙思想を修めた。兄のアブデュルは22歳で家長となり、商人として働き始めた。ナイムは、ペルシア語やトルコ語、アラビア語を、二人の地元のベクタシュ教団員から個人的に学んでいる。

1870年に学業を終えると、イスタンブールの新聞社に数か月勤務したが、結核にかかって故郷に戻った。フラシャの気候で回復したのち、ベラトやサランダでオスマン帝国の官公庁の役人として勤めた。1876年には職を離れ、現在のオーストリアにあるバーデンの保養地で養生した。兄アブデュルが参画したプリズレン連盟が1878年に結成されると、ナイムは連盟でアルバニア語文献の創出、編纂、出版に寄与した。1879年には、弟のサミら25人のアルバニア人とともに、イスタンブールでアルバニア語の著作の出版協会を創設し、会員となった。1885年にオスマン帝国当局がアルバニア語での執筆を禁じると、出版は国外で行われるようになり、ナイムは自分の頭文字を用いて、その制限をかいくぐった。1884年に創刊されたアルバニア語の雑誌では、当局が許さなかったため、表に出ない編集者を務め、偽名で書いた。1880年代後半には、アルバニア語の学校のために、サミらと教科書も書いた。

はじめはイスタンブールで数冊の詩集を出版したが、1886年以降はルーマニアのブカレストで十数冊の詩集を出版した。ベクタシュ教団の思想を背景としたイスラーム神秘主義詩を数多く発表し、若いころからサアディー、ハーフェズ、ルーミーらのペルシア詩人に感化され、ペルシア語の詩集も2作刊行している。母語でも発表し、アルバニア語におけるイスラーム神秘主義詩の泰斗とされる。1898年に発表したカルバラの出来事をモチーフにした宗教詩文は、とくに誉れ高い。生まれ育った村を土壌にした1886年の牧歌は、素朴なアルバニアの羊飼いの田園生活を描き、ギリシアやオリエンタルな要素が混じり合う、最高傑作の一つとされる。同じく1898年にブカレストで、オスマン帝国軍を敗走させた中世の英雄スカンデルベグの生涯を、格調高く詠った叙事詩を発表した。

1900年10月20日、イスタンブールのカドゥキョイ地区で没した。アルバニア語を文化語として高め、普及させた彼は、近代アルバニア文語および近代アルバニア文学の父と評され、国民的詩人として認識されている。現在流通しているアルバニアの紙幣に肖像が刻まれ、アルバニア政府の栄誉であるナイム・フラシャリ勲章にも名を残す。ペルシア文学への貢献を讃えて、イランは彼の肖像が描かれた切手を発行した。

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