伝記
フェルナンド1世は、11世紀のイベリア半島で、カスティーリャ伯、のちレオン王として知られた君主である。1017年ごろ(1016年から1018年の間とも)に生まれ、1065年12月27日に没した。「大王」と呼ばれ、1056年には「全ヒスパニアの皇帝」として戴冠した。父はナバラ王サンチョ3世(大王)、母はカスティーリャ伯サンチョ・ガルシアの娘ムニア・エルビラ(ムニアドナ)である。アラゴン王ラミロ1世は異母兄、ナバラ王ガルシア3世は同母兄、ソブラルベ伯ゴンサロは同母弟にあたる。伝統的には父の次男とされてきたが、当時の文書の多くはラミロ、ガルシア、ゴンサロに次ぐ四男として扱っているという。
カスティーリャ伯だった母方の家系では、1017年にサンチョ・ガルシアが亡くなり、7歳の子ガルシア・サンチェスが跡を継いで、伯領は混乱の時期に入った。そのガルシアは成人後、レオン王ベルムード3世の姉妹サンチャとの結婚を図ったが、1028年ごろまでに暗殺された。子のないまま亡くなったため、サンチョ大王が妻ムニアドナの権利を理由にカスティーリャを治め、1029年7月の文書には、息子フェルナンドが伯に任じられたことが見える。ただし当時のフェルナンドは13歳ほどで、実権を握っていたのは常に同行していた父であった。1032年にフェルナンドはサンチャと結婚し、持参金としてセア川とピスエルガ川にはさまれた土地を得た。サンチャはレオン王アルフォンソ5世の娘である。
1035年に父が死ぬと、遺領は4人の王子に分けられ、フェルナンドはカスティーリャ伯領を得た。1037年、父にレオンを奪われた妻の兄(弟とも)ベルムード3世が復権を狙って戦った。フェルナンドは兄ガルシア3世の援助を受け、タマロンの戦いでベルムードを討ち取ってレオンを獲得し、カスティーリャとレオンの王を称した。しかし兄との衝突は絶えず、1054年のアタプエルカの戦いで両軍が決戦となり、ナバラ軍に勝って兄を敗死させた。これによってカスティーリャは優位に立った。
その後はレコンキスタを進めた。ただ、征服した土地に入植する人数が足りなかったため、小さく分裂したイスラム諸国(タイファ)を臣従させ、パリア(貢納金)を取って保護する方針を重んじた。カスティーリャとレオンの結びつきが弱かったので、外へ目を向けて国内の統合を図る意図もあったという。1055年から遠征を始め、バダホス王国を攻めてラメゴ(1057年)とヴィゼウ(1058年)を奪い、臣従とパリアの支払いを取り付けた。トレド王国は1043年ごろにパリアを義務づけられていたが滞納したため、周辺の都市を侵して1062年に改めて納めさせた。1063年には異母兄ラミロ1世に攻められたサラゴサを救うため、長男サンチョ(のちのサンチョ2世)とエル・シッドを派遣し、ラミロ1世を戦死させた。1064年にはコインブラを包囲して陥落させた。
宗教面ではクリュニー修道院に修道士の派遣を求め、領内の司教区を整えさせてキリスト教の浸透を図り、同修道院に多額の献金を送った。1065年にバレンシアへの遠征の途中で病にかかり、レオンへ戻って間もなく没した。遺言により、カスティーリャは長男サンチョ2世が、レオンは次男アルフォンソ6世が、ガリシアは三男ガルシア2世が、トーロとサモラは娘のエルビラとウラカがそれぞれ相続した。伝統的にフェルナンドは初代カスティーリャ王とされてきたが、近年の研究には、カスティーリャが王国となるのはこの分割でサンチョが王の称号を受けたときだとする見方もある。
同じ年に亡くなった人物
- エストリズ・スヴェンスダッタ (1065年(推定))
- フリードリヒ (下ロートリンゲン公) (1065年没)
同じ地域に関係する人物
- フルエーラ2世 (925年没)
- アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラ (1595年没)
- ラミロ2世 (レオン王) (951年没)
- ラミロ3世 (レオン王) (985年没)
- エンリケ (ポルトゥカーレ伯) (1112年没)