伝記
ヴィクトリアは、1819年5月24日午後4時15分ごろ、ロンドンのケンジントン宮殿で生まれた。イギリスのハノーヴァー朝第6代の女王で、在位は1837年6月20日から1901年1月22日、1877年1月1日からは初代のインド皇帝(女帝)も兼ねた。ジョージ3世の孫にあたり、父は第四王子のケント公エドワード、母は妃のヴィクトリア(ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公の娘)で、一人娘である。父は借金まみれで、物価の高いイギリスでは暮らせないと言い、ベルギーやドイツ諸国を転々としていたが、妃の出産が近づくと、子をロンドン出生にするため、流産の危険を冒してでも一時帰国し、兄の摂政王太子から借りたケンジントン宮殿に入ったという。母はケント公との結婚前にライニンゲン侯と結婚しており、ヴィクトリアには異父の兄と姉がいた。
ハノーヴァー家はドイツの領邦ハノーファーの王家でもあったが、ハノーファーではサリカ法が適用され、女子の王位継承が認められなかった。一方、イギリス王室にはサリカ法がなく、女子にも継承権があった。生まれたときの継承順位は、3人の伯父と父に次ぐ第5位であったが、3人の伯父が嫡出子を残さなかったため、1837年6月20日に18歳で即位した。ハノーファー王位は叔父のエルンスト・アウグストが継ぎ、イギリスとハノーファーの同君連合は解消された。在位初期にはホイッグ党の首相メルバーン子爵を偏愛した。1840年に母方の従弟にあたるザクセン=コーブルク=ゴータ公国の公子アルバートと結婚し、4男5女の9人の子をもうけた。夫の忠告に従い、王権の中立化に努めるようになり、その後もしばしば政治に影響力を行使しながら、基本的には議会の状況に基づいて首相を選ぶようになった。夫アルバートは重きをなしていったが、1861年12月14日に42歳で亡くなり、同年3月には母も失った。これによってイギリスは立憲君主制の道が開かれたという。
悲しみにくれた彼女は10年以上にわたって服喪し、公務に姿を見せなくなった。しかし1870年代に、保守党の首相ディズレーリに励まされて公務に復帰し、その帝国主義政策を全面的に支援して、大英帝国の最盛期を築いた。ディズレーリを偏愛する一方、自由党のグラッドストン首相は一貫して嫌い、アイルランド自治法案の阻止に全力を挙げた。帝国主義政策では最強硬派で主戦論者として政府に発破をかけることが多かったが、「帝国の母」「慈愛」のイメージは各地の臣民を結び付け、帝国の維持と拡大の礎となった。晩年は老衰で政治的な活動が少なくなり、立憲君主化が一層進んだ。
9人の子女が欧州各国の王室や帝室と婚姻を結んだ結果、彼女は「ヨーロッパの祖母」と呼ばれた。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とロシア皇后アレクサンドラは孫にあたる。1901年1月22日に満81歳で崩御し、王位は長男のエドワード7世に継承された。63年7か月の治世は「ヴィクトリア朝」と呼ばれ、政治、経済、文化、技術の各面で優れた成果を上げた。ヴィクトリア島、ヴィクトリア湖、ヴィクトリア滝など、その名にちなんだ地名も少なくない。エリザベス2世の高祖母にあたる。
同じ年に亡くなった人物
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