伝記
ニルス・アドルフ・エリク・ノルデンショルドは、1832年11月18日に生まれ、1901年8月12日に没した、フィンランド大公国(現フィンランド共和国)出身の鉱山学者で探検家である。スウェーデン系フィンランド人として生まれ、のちにスウェーデンに帰化した。北ヨーロッパと東アジアを結ぶ最短の航路である北東航路の開拓に成功し、日本にまで達して、世界的なセンセーションを巻き起こした。
ヘルシンキで鉱山学者の子として生まれた。曾祖父は17世紀にスウェーデンからフィンランドへ定住した。父のニルス・グスタフに少年時代から調査に同行して鉱山研究を続け、成年に達してからも父とともにウラル山脈へ鉱山調査に赴いて、自身も鉱山学者として成長した。1849年に独学でヘルシンキ大学に入学し、21歳で博士号を取得した。鉱物を中心とした論文を書き上げて、鉱物学で名声を高め、ユーラシア大陸横断の計画を立てるなど、学者探検家として嘱望された。1852年には、大学で新設された地質・鉱物学の教授職の候補にまで挙げられた。
しかし、思わぬ事態が起こり、大学の職を剥奪された。1853年に始まったクリミア戦争の余波がフィンランドに及び、当時ロシアの宗主下の自治大公国であったフィンランドで、ロシア総督府はスウェーデンの動きを警戒して、統制を強めたからである。スウェーデン人の血を引く彼はこれに反発を隠さず、職を追われ、総督府の監視下に置かれた。1857年にスウェーデンの北極海遠征に加わり、1年でヘルシンキ大学に戻ったが、監視は続き、大学での成功は絶望的であった。そこでスウェーデン王立科学アカデミーの教授職を持ちかけられて同意し、1860年にスウェーデンへ渡った。一時的なつもりだったが、総督府の許可は事実上の追放処分と同じであった。スウェーデンでは国を挙げて大歓迎され、フィンランドでは貴族階級であったため、スウェーデン議会の貴族議員に選ばれた。1863年にフィンランド出身のアンナ・マンネルヘイムと結婚し、スウェーデンの国籍を取得して帰化した。のちにスウェーデンの探検隊を率いてスピッツベルゲン島を調査し、1869年に英国王立地理学会の金メダルを受賞した。
1878年、未だ成功していない北東航路の開拓と、北極における研究と調査のため、航海計画を立てた。計画はスウェーデン国王オスカル2世に承認され、国王や商人らの支援を得て、蒸気船「ヴェガ号」を旗艦とし、彼は航海の責任者となった。1878年7月4日にストックホルムから出港し、8月にユーラシア大陸最北端のチェリュスキン岬を史上初めて船で回ることに成功した。9月末、北東航路の走破寸前のベーリング海で流氷に囲まれたが、翌1879年7月に解放され、一人の死者も出さずに北東航路の通航に成功した。同年9月2日に横浜港に到着し、日本でもセンセーションを巻き起こし、9月17日には明治天皇と謁見している。日本では鉱物や化石の蒐集のほか、工芸品を購入し、古典籍を約6000冊集めて持ち帰り、王立図書館に寄付した。帰国した一行は賞賛と歓声を受け、その中に若き日のスヴェン・ヘディンがいた。最後まで叶わなかったのは、故国フィンランドの処遇であり、1899年にニコライ2世にフィンランドの自治権回復を嘆願するため、謁見を求めたが拒否された。講演活動などをしながら、スウェーデンで暮らして1901年に死去した。
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