HISTORICAL PERSON · 1069年没

ゴットフリート3世 (ロートリンゲン公)

上・下ロートリンゲン公を務め、皇帝ハインリヒ3世と争った。ベアトリクスとの結婚でトスカーナ辺境伯となり、実弟をステファヌス9世として教皇位に就け、アレクサンデル2世を正式な教皇とした。

生涯
1069年没
死亡地
フランス共和国(ムーズ県 / ヴェルダン)
出生地
—
出典
世界地図
フランス共和国(ムーズ県)

伝記

ゴットフリート3世は、生年は明らかでないが1069年12月に没した中世ロートリンゲンの有力諸侯である。上ロートリンゲン公(在位1044年から1047年)、トスカーナ辺境伯(在位1054年から1069年)、下ロートリンゲン公(在位1065年から1069年)を歴任し、鬚公と呼ばれた。アルデンヌ家のロートリンゲン公ゴツェロ1世の長男である。皇帝との対立と和解を繰り返しながら、やがてイタリアと教皇庁の政治にも深く関わった。

1044年4月に父ゴツェロ1世が死去すると、皇帝ハインリヒ3世はロートリンゲンの一括相続を認めなかった。ゴットフリートに上ロートリンゲンを、弟のゴツェロ2世に下ロートリンゲンを分けて授封したのである。ゴットフリートは反論し、皇帝はこれを反逆とみなして、諸侯会議で上ロートリンゲン公領を取り上げた。ゴットフリートは皇帝と戦ったが、1045年7月に降伏し、翌1046年5月に拘禁を解かれて上ロートリンゲン公領を再び与えられた。その間に、弟に与えられていた下ロートリンゲン公位は、ルクセンブルク家のフリードリヒのものとなっていた。

1047年には、リエージュの併合をめざして、ホラント伯ディルク4世、フランドル伯ボードワン5世、エノー伯エルマンらとともに皇帝と再び対立し、上ロートリンゲン公位を剥奪された。1049年に皇帝がホラント伯を倒し、皇帝が擁立した教皇レオ9世がゴットフリートとフランドル伯を破門するなか、同年7月にアーヘンで皇帝に降伏した。

1054年、先妻ドダに先立たれていたゴットフリートは、夫のトスカーナ辺境伯ボニファーチオ4世を亡くして庇護者を求めていた、同じアルデンヌ家出身のベアトリクスと結婚し、トスカーナ辺境伯となった。イタリアでの支配権拡大をめざし、フィレンツェ市民の暴動を鎮めたのち、エミリア、マルケ、ウンブリアへ出撃して勢力を広げた。これに対し皇帝ハインリヒ3世は1055年にイタリアへ進軍した。ゴットフリートは妻ベアトリクスとその先夫との子マティルデらを残して、戦わずにロートリンゲンへ逃げ帰り、母子は皇帝に捕らえられた。しかし翌1056年、皇帝は死に際して息子ハインリヒの将来のためゴットフリートと和解し、家族と領地の返還を決めた。ゴットフリートはドイツへ向かい、新帝ハインリヒ4世に臣従を誓う代わりに、ロートリンゲンとトスカーナの領有を認めさせ、イタリアへ戻った。1057年に教皇ウィクトル2世が没すると、フェルモ伯とスポレート公を兼ね、実弟フリードリヒをステファヌス9世として教皇位につけ、イタリア王位を狙った。だがこの教皇は翌年に死去した。ローマ貴族がベネディクトゥス10世を選ぶ一方で、ゴットフリートらはニコラウス2世を選び、ニコラウス2世がドイツでも承認されてベネディクトゥス10世は廃位された。1061年にニコラウス2世が没すると、反皇帝派のアレクサンデル2世と皇帝派のホノリウス2世が並び立ったが、1062年にゴットフリートは争いに介入し、最終的にアレクサンデル2世をローマに入れて正式な教皇とした。

1065年、下ロートリンゲン公フリードリヒが死去すると、成年に達したハインリヒ4世から下ロートリンゲン公位を授けられた。1066年には教皇の要請に応じて、教皇領に侵攻したカプア公リッカルド1世と戦い、ローマから撤退させている。1069年、ヴェルダンで死去し、同地に葬られた。下ロートリンゲン公位は先妻ドダとの子ゴットフリート4世が継ぎ、同年、ベアトリクスの先夫との娘マティルデ(のちのトスカーナ女伯)と結婚した。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物