伝記
アンノ2世は、1010年ごろシュヴァーベンのエーインゲン近郊、アルトシュトイスリンゲンに生まれた聖職者である。短い騎士教育を経て、バンベルクの聖職者であった親族の勧めで教会の道へ進んだ。バンベルクやパーダーボルンの大聖堂学校で学び、のちにバンベルクで教えるようになった。1046年には神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世付きの司祭となり、1051年と1052年にはハンガリー王アンドラーシュ1世への遠征に同行した。1054年には新設のゴスラー大聖堂の要職に就き、1056年にケルン大司教に任じられた。宮廷での強い立場を使って聖職者の人事にも関与し、1059年には甥ブルクハルトがハルバーシュタット司教となった。
1056年にハインリヒ3世が死去すると、幼いハインリヒ4世を母后アグネスが支える体制となった。アグネスによる封土の授与や、アウクスブルク司教を相談役としたことに反発する諸侯を、アンノはまとめた。1062年4月、カイザースヴェルトで豪華に飾った船へ少年王を誘い、乗船と同時に船を出させた。ハインリヒはライン川へ飛び込んで逃れようとしたが、同船したエクベルト伯に連れ戻された。アンノは帝国の宝物も掌握してアグネスを権力から退け、摂政として国政を動かすようになった。しかし権力の独占は長続きせず、ブレーメン大司教アーダルベルトやマインツ大司教ジークフリートと分担し、自身はマギステルという称号を保持して、王の教育を監督する役割を担った。
教会の分裂にも介入し、アグネスが推す対立教皇ホノリウス2世に対してアレクサンデル2世を支持した。1062年のアウクスブルクの会議では、ブルクハルトをローマへ派遣して事情を調べさせた。翌1063年には弟ヴェルナーがマクデブルク大司教に就いた。1064年5月のマントヴァの司教会議でもアレクサンデルの正当性を認めさせたが、ドイツへ戻るとアーダルベルトに権力を奪われ、ハインリヒ4世からも遠ざけられた。1066年にアーダルベルトが失脚すると影響力を取り戻し、甥コンラートをトリーア大司教に据えた。1072年までには再び帝国の指導的な地位を占め、ザクセン貴族による反乱では王との仲裁にもあたった。
アンノは禁欲的に暮らし、教会改革を支持したが、大司教領の利益を脅かす相手には厳しく対処した。マルメディ修道院を自らの管轄に組み入れる試みは論争を招き、最終的に失敗した。一方、ミヒャエルスベルクのベネディクト会修道院ではイタリアのフルットゥアリアを範とする改革を進め、ジークブルクの改革は各地へ広がった。聖ゲオルク教会、ザールフェルト修道院など、多くの宗教施設の創建にも携わった。聖職者の妻帯に反対し、修道院の規律を厳しくした。1074年の復活祭にはケルン市民が蜂起し、三日を待たずに鎮圧して参加者を厳罰に処した。また、皇帝を差し置いてイングランド王ウィリアム1世と同盟したとの告発を受け、切り抜けたものの宮廷から遠ざかった。1075年12月4日、ジークブルク修道院で死去して同地に葬られた。1183年に教皇ルキウス3世によって列聖され、その生涯をたたえる『アンノの歌』などが伝わった。
同じ年に亡くなった人物
- グズリーズ・ソルビャルナルドーティル (1075年(推定))
- アンナ・ヤロスラヴナ (1075年没)
- エルンスト (オーストリア辺境伯) (1075年没)
- イオアンニス8世 (1075年没)
- エディス・オブ・ウェセックス (1075年没)
同じ地域に関係する人物
- ゲルダ・マウルス (1968年没)
- カール・プフェッファー=ヴィルデンブルッフ (1971年没)
- マウリシオ・カーゲル (2008年没)
- Adele Schopenhauer (1849年没)
- Karl Hohmann (1974年没)