伝記
ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウは、1821年10月13日にプロイセン王国ポンメルンのシフェルバイン(現在のポーランドのシフィドウィン)で生まれ、1902年9月5日に没したドイツの医師、病理学者、先史学者、政治家である。白血病の発見者として知られ、「近代病理学の父」「社会医学の創始者」と呼ばれた。父カール・クリスティアンは農夫で市の会計官を務め、ルドルフは一人っ子だった。学業は抜群で、常に首席であり、ドイツ語、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語、英語、アラビア語、フランス語、イタリア語、オランダ語に通じていた。牧師になるつもりで1835年にケスリンのギムナジウムに進んだが、声が説教に向かないと考え、医学の道を選んだ。
1839年に、貧しい家の優秀な子供が陸軍軍医になるための軍の奨学金を得て、ベルリンの大学で医学を学んだ。最も影響を受けたのは、博士論文の指導教官ヨハネス・ペーター・ミュラーである。1843年に角膜のリウマチ性疾患を扱った論文で博士号を取り、シャリテ病院で研修した。1844年には解剖担当医ロベルト・フロリープの助手となり、顕微鏡の技術を学んで病理学に関心を持った。1845年に最初の科学論文を発表し、白血病の最も早い病理学的記述を行った。1846年に医師の免許試験に通ってフロリープの後任となり、1847年には最初の学術的な地位を得た。同年から1848年にかけて、上シュレージエンで流行した発疹チフスを調査し、この調査はドイツの公衆衛生の基礎を築いた。そこから「医療はすべて政治であり、政治とは大規模な医療にほかならない」という有名な言葉が生まれた。
1848年の革命に加わったことで、翌年にはシャリテ病院を追われた。『医学改革』という新聞を刊行したのち、1849年に政治上の理由からヴュルツブルク大学で初の病理解剖学の講座を担い、そこで解剖学を研究した。7年後の1856年、ベルリン大学の新しい病理学研究所の教授に迎えられた。『細胞病理学』(1858年)は近代病理学の源とされ、有名な「全ての細胞は細胞から生じる」という命題を掲げ、細胞病理学、比較病理学、人類学の基礎を築いた。2,000を超える科学的著作を書き、白血病のほか、脊索腫、塞栓症、血栓症などを最初に記述して名づけ、血栓症の3要因は「フィルヒョウの3徴」と呼ばれる。旋毛虫の生活環の記述は、食肉検査の実務に影響を与え、最初の組織的な解剖法も考案した。
政治家としても活動し、ベルリン市議会議員(1859年から1902年)、プロイセン下院議員(1862年から1902年)、帝国議会議員(1880年から1893年)を務めた。進歩党の共同創設者としてビスマルクの政敵となり、勃興する反ユダヤ主義を真っ向から否定した。ベルリンに近代的な上下水道をつくるためにも働いた。1869年のベルリン人類学会の創設に加わり、ハインリヒ・シュリーマンのトロイア発掘を支援した。晩年は保守化し、「病理学の法王」としてベルリンに君臨した。細菌説に反対し、ゼンメルワイスの消毒法にも早くから反対し、その影響は大きかったといわれる。1884年にロンドン王立協会の外国人会員に選ばれ、1892年にコプリ・メダルを受けた。
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