伝記
ラモン・バランゲー1世は、1023年に生まれたバルセロナ伯で、老伯とも呼ばれる。父バランゲー・ラモン1世と祖母アルメサンドの共同統治期には伯権の威信が衰え、貴族たちは伯の権威を無視して城塞を掌握し、私有地のように封土として与えるようになっていた。1035年に父が亡くなると、その所領は三人の息子に分割された。ラモン・バランゲーがバルセロナとジローナを継ぎ、ギジェムがオソナを、サンチがリョブレガット川からイスラーム勢力との境界に至る南部のパナデスを受け継いだ。三人とも未成年であったため、祖母の後見下に置かれた。
幼少期の領内では、パナデスの有力者ミル・ジェリベルトがオレルドラ公を称した。バルセロナ副伯や司教とも親族関係を持ち、国境地帯の複数の城を保有していた。市の城壁にある四つの塔のうち二つは、副伯家が掌握していた。ミル・ジェリベルトを中心とする貴族たちは伯権に反対した。伯とバルセロナ商人には、イスラーム諸王からの貢納を伴う和平が有益であったが、略奪や戦利品を求める貴族には不利だったのである。伯が農民共同体に自由や財産の安全を保障することにも反発した。それは貴族による課税を妨げたためである。さらに国境地帯の土地に権利を主張するサン・クガト修道院を伯が支持したことも対立を招いた。修道院は古い寄進状に基づいて裁判で勝訴することが多く、貴族の一部は裁判を避け、その財産を武力で奪うに至った。祖母は弟でジローナ司教のペレ、修道院長オリバ、裁判官ポンス・ボンフィリ・マルク、行政に関わる貴族らとともに、伯権と従来の法秩序を擁護した。
ラモン・バランゲーは最初にエリザベート・ド・ニームと結婚し、バランゲー、アルナウ、ペレ・ラモンをもうけた。初めの二人は早世した。次にブランシュ・ド・ナルボンヌを妃としたが、この婚姻が続いている間に、トゥールーズ伯ポンスの妃アルモディス・ド・ラ・マルシュと関係を持ち、やがて結婚した。アルモディスとの間には双子の男子バランゲー・ラモンとラモン・バランゲーのほか、娘イネスとサンチャが生まれた。1054年からはオソナ伯を兼ねた。アルモディスとの婚姻によって、教皇ウィクトル2世から破門も受けた。領内では『バルセロナ慣習法』の初版を公布し、カタルーニャ法の成文化を進めた。これは父の代に始まった封建化を統御しようとする取り組みの一部で、西ヨーロッパで最初の完全な封建法の編集となった。教会も神の平和と休戦を通じ、特定の地域と期間における諸勢力間の休戦を定めた。
治世にはムーア人への遠征を行い、領土を西のバルバストロまで広げ、ほかの都市にも重い貢納を課した。西地中海ではカタルーニャの海上での影響力が現れ始めた。1068年にはカルカソンヌとラゼスの伯となり、ピレネー山脈以北にも所領を得た。アルモディスとともに、バルセロナにはロマネスク様式の大聖堂を建てた。しかし先妻との息子ペレ・ラモンがアルモディスを殺害し、追放された。1076年5月26日、ラモン・バランゲー1世は死去し、双子の息子ラモン・バランゲー2世とバランゲー・ラモン2世が伯位を継承した。夫妻の木棺はベルベットと真鍮で飾られ、後に建てられたゴシック様式の大聖堂に置かれた。
同じ年に亡くなった人物
- ユースフ・ハーッス・ハージブ (1076年(推定))
- サンチョ4世 (ナバラ王) (1076年没)
- ベアトリクス・フォン・ロートリンゲン (1076年没)
- ロベール1世 (ブルゴーニュ公) (1076年没)
- ガギク2世 (1076年没)
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