HISTORICAL PERSON · 1081年没

Mihailo I of Duklja

11世紀にドゥクリャを治めたセルビア系の王。ビザンツの臣下から離れ、1077年に教皇グレゴリウス7世から王の印を受けて「スラヴ人の王」と称した。

生涯
1081年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ミハイロ1世は、ドゥクリャを治めたステファン・ヴォイスラヴの子である。父の死後、領国は五人の息子に分けられたとされる。トラヴニアでは兄弟の一人が地元の貴族に殺され、ドマネクが支配者として擁立された。ミハイロはドマネクを追放し、サガネクを立てたが、ドマネクは再び戻ってこれを追い払った。そこでミハイロはラドスラヴに同地の統治を持ちかけた。ラドスラヴは、自身のルシュカの領地を失うことを恐れて初めは断ったという。ミハイロにゼタを奪われるのではないかと、ラドスラヴが疑ったともされる。東ローマ帝国が父の死に乗じてドゥクリャへの攻撃を準備する中、残る四兄弟は和解して同盟を結び、ラドスラヴがトラヴニアを攻めてドマネクを殺した。

兄弟間の安定を支えていた母が死去した後、ミハイロは1046年にドゥクリャの君主となった。直ちに東ローマから攻撃される状況ではなかったが、帝国との結び付きを強める方が有利と考え、1050年にプロトスパタリオスの称号を受けた。また、皇帝コンスタンティノス9世モノマコスの姪を妻に迎えた。これはコンスタンティノープルの権威を名目的に認めるものだったと考えられるが、実際の支配権を大きく譲ったわけではなかった。東ローマの同盟者、友人として位置付けられた関係のもとで、その後およそ二十年にわたって平穏な時期が続いた。

情勢は、1071年のマンジケルトでの東ローマの敗北と、南イタリアにおけるノルマン人の征服の後に変わった。1072年、スコピエのブルガリア人貴族たちがゲオルギ・ヴォイテフを指導者として東ローマ支配への反乱を計画し、ミハイロに援助を求めた。見返りとして、ブルガリアの王家の血を引くミハイロの息子の一人に帝位を与えると申し出た。同年秋、ミハイロは息子コンスタンティン・ボディンを三百人の兵とともに送り、ボディンはプリズレンで反乱の指導者たちと合流した。その場でブルガリア皇帝に戴冠され、過去の君主を記念してペタル3世の名を与えられた。

反乱軍は初め成功を収めたが、のちにボディンは捕らえられた。ミハイロは救出のため、捕虜となっていた東ローマの将軍ランゴバルドプロスを派遣した。この将軍はミハイロの娘の一人と結婚していたが、任務の途中で東ローマ側へ寝返った。反乱への援助によって帝国との関係が悪化したため、ミハイロは西方、とりわけ教皇の支援を求めるようになった。そこには、自国に独立した大司教座を置き、王の称号を得たいという意図もあった。東西教会の分裂後、教皇グレゴリウス7世は、1077年にミハイロへ王の標章を与えた。

以後ドゥクリャは王国と呼ばれ、ミハイロは教皇と名目的な主従関係を結んだ。1078年1月9日付の教皇の書簡でも、ミハイロはスラヴ人の王と呼びかけられている。晩年には後継者ボディンとバーリのヤクヴィンタの結婚を通じ、ノルマン人との関係を固めた。ミハイロは1081年に死去した。ドゥブロヴニク北方のストンには、ミハイロが残した聖ミカエル教会がある。初期東ローマの様式を主とする小さな教会で、南スラヴの君主を描く最古級のフレスコ画の一つが保存されている。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物

該当人物はまだありません。