伝記
オエル2世は、1030年または1031年ごろに生まれたコルヌアイユ伯で、妻アヴォワーズの権利によってブルターニュ公となった人物である。父はコルヌアイユ伯アラン・カニアール、母はナントの相続人ジュディットであった。母はブルターニュ公アラン2世の庶子オエル1世の孫娘に当たる。母方の家系からナント伯領を受け継ぎ、父方のコルヌアイユと合わせて統治した。
ナントでは母ジュディットの兄弟ブディックの息子マチュー1世が1050年まで伯位にあった。同年、父アラン・カニアールがオエルの名においてナント伯領を奪い、1054年まで息子の摂政として保持した。1054年にブルターニュ公コナン2世がナントを奪おうとしたが、敗北した。オエルは母の名のもとで伯領を治めた。1058年より前にはコナン2世の姉妹アヴォワーズと結婚していた。コルヌアイユ伯の地位も父から引き継いだ。ナントにおける一族の支配を固めるため、弟ゲレックを1059年に同市の司教に選ばせ、1061年に叙階させた。公になる前には、アンジェのサン・ニコラ修道院へダンロー島を寄進している。1063年に母が死去すると、ナント伯領を継承した。
1066年12月、コナン2世が跡継ぎなく死去した。公領を継いだのは姉妹のアヴォワーズであり、オエルは妻の権利によってブルターニュ公となった。ただしレンヌ伯領はアヴォワーズの異母弟ジョフロワ・グレノナに与えられており、その支配には入らなかった。この時期、ウィリアム征服王のイングランド征服に加わったブルトン人領主たちは、海の向こうで大きな領地を獲得した。アラン・ルーフスはリッチモンドの所領を得、ジョフロワ・ド・ラ・ゲルシュもレスターやウォリックに領地を持った。オエルの統治の初めは平穏だったが、1072年に妻を失った。
1072年から1078年の間には、使徒の墓を訪ねるためローマへの巡礼も行っている。この期間と重なる1075年から1077年にかけて、ブルターニュの領主たちが反乱を起こした。ジョフロワ・グレノナらに加え、イングランドの反乱に敗れて追放されたラルフ・ド・ガーダーも参加した。両者は1075年にドルを占拠し、1076年にはウィリアム征服王がブルターニュへ入ってドルを包囲した。しかしフランス王とアキテーヌ公の到着によって撤退を余儀なくされた。1077年にはオエル自身が反乱勢力の捕虜となったが、息子アラン・フェルジャンが反乱軍を破って父を救出した。最終的にはラルフとの和平も成立した。1078年、弟ゲレックの死後、末弟でカンペルレのサント・クロワ修道院長だったブノワがナント司教を継いだ。同じ年、教皇はオエルとレンヌ伯らに教会改革への支援を求めた。
反乱が完全に終息したのは1079年であった。1079年から1084年にかけては、サント・クロワ修道院に属する小修道院をランドゥジャンに創設した。宮廷を伴ってカンペール、オーレー、ナントに滞在し、宮廷にはカディウという竪琴奏者もいた。1084年4月13日に死去した。アヴォワーズとの子には、ブルターニュ公となるアラン4世、ナント伯となるマチュー2世のほか、ウードと娘たちがいた。オエルの系統であるコルヌアイユ家は、1156年までブルターニュ公位を継承した。
同じ年に亡くなった人物
- アル・ムータミン (1084年没)
同じ地域に関係する人物
- Anita Conti (1997年没)
- ヴィクトル・セガレン (1919年没)
- Andre Barrais (2004年没)
- サン=ポル=ルー (1940年没)
- リュシアン・シモン (1945年没)