伝記
カミーユ・ピサロは、1830年7月10日にカリブ海の、当時デンマーク領だったセント・トーマス島で生まれた、19世紀フランスの印象派の画家である。父フレデリック・アブラハムはボルドー出身のユダヤ教徒で、金物屋を営んでいた。母ラシェルは島生まれのフランス系ユダヤ人であった。4人兄弟の三男で、島の首都のシナゴーグにある出生登録簿には、「ジャコブ・ピサロ」の名で記録されている。1842年、12歳のときにパリに渡って寄宿学校に入り、1847年に島へ戻って、家業の手伝いを始めた。1850年、港でデンマークの画家フリッツ・メルビューと知り合い、ベネズエラ行きを誘われて、1852年から1854年までともに旅した。
画家を志し、1855年9月に再びパリに向かった。ちょうど開かれていた万国博覧会で、コローやドービニー、ミレーといったバルビゾン派の画家や、審査に抗議して個展を開いたクールベに注目し、コローに会ってアドバイスを求めた。比較的自由にモデルを描ける画塾アカデミー・シュイスに通い、モネやセザンヌと知り合ったと思われる。1859年のサロンに『モンモランシーの風景』が初めて入選した。ところが、1860年代は入選と落選を繰り返し、生活は苦しかった。画風はコローにならったものであった。両親の家で働いていた農家の娘ジュリー・ヴレーと関係を持ったが、身分が低くカトリック教徒だったので両親は交際に反対し、彼女を解雇した。1863年に長男リュシアンが生まれ、1866年には長女が生まれて、生活は更に苦しくなった。この頃パリでは、マネを中心に若い画家や批評家がカフェ・ゲルボワに集まり、バティニョール派と呼ばれたが、ピサロもこれに加わった。最年長で仲間から尊敬され、無政府主義者で政治的な意見は過激でも、温和で人から憎まれなかったという。
1869年からパリ郊外のルーヴシエンヌに住み、モネ、シスレー、ルノワールと戸外で制作するうちに、色調が明るくなり、絵具の塗り方は薄くなった。1870年の普仏戦争を避けて、12月にロンドンへ逃れ、画商デュラン=リュエルを紹介された。以後、デュラン=リュエルは印象派の画家たちの重要な取引相手となった。1871年にジュリーと正式に結婚し、自宅に戻ると、プロイセン軍に荒らされていた。1872年からはポントワーズに住み、農民や市場の様子など田園の日常を描いた。ここにはセザンヌやゴーギャンも集まり、セザンヌは後にピサロを「父親のような存在」と述べた。
モネとともに独自のグループ展を計画し、組織の規約を起草して、1874年に第1回印象派展を開いた。しかしアカデミズムの立場からは受け入れられず、新聞に酷評された。印象派展は全8回開かれたが、全てに参加したのはピサロだけである。ドガとモネらの対立の調停を試みたが、分裂を防げなかった。1884年からエラニーに住み、1885年にスーラと知り合うと、点描の技法に感化され、1880年代後半は新印象主義を追求した。最後となる第8回展に、スーラの作品を出品させたのもピサロである。1890年代初めには点描の限界を感じて、それを放棄した。ゴッホやゴーギャン、スーラらにとって父親的存在であったため「印象派の父」とも呼ばれる。晩年は眼の病気が悪化し、ホテルの部屋などから都市の情景を描く「都市シリーズ」を多く制作した。1903年11月13日に没し、油彩画は1316点、版画は200点余りが残った。
同じ年に亡くなった人物
- 唐景崧 (1903年没)
- チャールズ・ゴッドフリー・リーランド (1903年没)
- ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯) (1903年没)
- 楠本イネ (1903年没)
- ジュゼッペ・ザナルデッリ (1903年没)
同じ地域に関係する人物
- アントワーヌ・コワペル (1722年没)
- Ida Mett (1973年没)
- ジュール・ラフォルグ (1887年没)
- ミケーレ・カラファ (1872年没)
- エリサ・リンチ (1886年没)