HISTORICAL PERSON · 1903年没

ジェームズ・マクニール・ホイッスラー

アメリカ出身でロンドンを拠点とした画家・版画家。浮世絵など日本美術の影響を受け、『白の少女』で脚光を浴びた。作品に「ノクターン」などの音楽用語の題を付け、1886年にイギリス美術家協会会長となる。

生涯
1903年没
死亡地
イギリス連邦(ケンジントン・アンド・チェルシー区 / チェルシー)
出生地
アメリカ合衆国(ローウェル)
出典
世界地図
イギリス連邦(ケンジントン・アンド・チェルシー区)

伝記

ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラーは、1834年7月10日にアメリカ合衆国マサチューセッツ州ローウェルで、鉄道建設技師の父と母アンナ・マチルダ・マクニールのもとに生まれた画家で、卓越した版画家でもあった。アメリカ人でありながら、画家としての生涯の大部分をロンドンとパリで過ごした。1842年、あるいは1843年とされる年から、父の仕事に伴って数年間ロシアのサンクトペテルブルクで生活し、帝国美術アカデミーに入ってフランス語を学んだ。のちの裁判では、ロシアを出生地だと主張している。ロンドンやブリストルにも住んだが、1849年に父が亡くなり、母とともにコネチカット州ポンフレットへ戻った。

1851年にアメリカでウェストポイントの陸軍士官学校に入学したが、1854年に放校処分となった。化学の成績不振が理由と伝えられる。父は同校で製図の教官をしていた。約1年間、ワシントンD.C.で地形図の銅版画工として働いたのち、少額の遺産を受け継いで、1855年にパリに居を構えた。パリではリアリズムの巨匠シャルル・グレールのアトリエに通ったが、その伝統的な画風に満足せず、同時代の革新的な画家ギュスターヴ・クールベに強く共感した。画家のファンタン=ラトゥールやルグロと志を同じくする「三人会」も結成した。

1859年にはロンドンにもアトリエを設けてロセッティ兄妹と親交を深め、以後はロンドンとパリを往復しながら制作した。1860年からロンドンのロイヤル・アカデミーに出品を始めた。1862年にロンドンで展示し、翌1863年にパリの落選展に出品した、当時の恋人ジョアンナ・ヒファーナンをモデルとする『白の少女』で、一躍脚光を浴びた。この作品は、白いドレス、白い花、白いカーテンなど、多様な白の色調を精緻に対比させ、人物の内面の描写よりも色彩の調和を目的とする点が特徴である。この頃から、作品の題名に「シンフォニー」や「ノクターン」といった音楽用語を用いるようになった。

19世紀後半のイギリスでは、1862年のロンドン万国博覧会を契機に日本の美術工芸品が広く紹介され、彼の作風には浮世絵をはじめとする日本美術からの影響が指摘される。1864年にはジャポニスムの影響を受けた作品を試み、日本の落款を思わせる蝶のサインを用いた。1868年には浮世絵の意匠を取り入れた『肌色と緑のヴァリエーション=バルコニー』を制作した。1876年から翌年にかけて、パトロンだった富豪レイランドのロンドンの邸宅の室内装飾を手がけ、壁面に孔雀が大きく描かれた食堂は、後にワシントンのフリーア美術館に移設された。

1877年にグローヴナー・ギャラリーに出品した『黒と金色のノクターン―落下する花火』は、ほとんど抽象絵画のように単純化された作品であった。批評家ジョン・ラスキンは理解できず、「絵具壷の中身をぶちまけたようだ」と激しく非難した。ホイッスラーは名誉毀損でラスキンを訴え、勝訴したが、多額の訴訟費用のために邸宅を売却せざるを得なくなった。1879年から1880年にヴェネツィアで過ごしたのち、再びロンドンに戻り、1886年にはイギリス美術家協会の会長となった。1903年7月17日、ロンドンで没した。

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