伝記
ギヨーム1世は、1020年に生まれたブルゴーニュ伯で、大伯、または豪胆伯とも呼ばれる。父はブルゴーニュ伯ルノー1世、母はノルマンディー公リシャール2世の娘アデライードであった。父方の祖父オット=ギヨームは、ブルゴーニュの世襲伯家の祖に当たる。妻はエティエンネットで、多くの子をもうけた。妻の出自は確定しておらず、ヴィエンヌの伯家、ロレーヌ、バルセロナ家などに結びつける説があるが、ロレーヌ出身説は、その根拠とされた文書の解釈が誤っていたとして撤回されている。
1057年、父の死によってブルゴーニュ伯位を継いだ。伯領は神聖ローマ帝国の封土に当たり、ギヨームも皇帝の臣下であった。1078年にはマコン伯位も得た。前の伯がクリュニー修道院の修道士となり、称号と土地を従兄弟のギヨームへ譲ったことによる。1085年にはブザンソンの教会支配にも関わり、息子ユーグを大司教に、別の息子ギーをその司教区の管理に就けた。1087年には、息子ウードの魂の安息のため、ブザンソンの大聖堂へ寄進を行った。
同じ1087年、ギヨームは六十七歳でブザンソンに没し、サン=テティエンヌ大聖堂に葬られた。この大聖堂は後世にサン=ジャン大聖堂に替わり、ブルゴーニュ伯たちの墓もそこへ移された。伯位は息子ルノー2世とエティエンヌ1世へ受け継がれた。ルノーは1097年に死去した。ユーグの大司教在任は1101年まで続いた。エティエンヌは1102年に死去し、ルノーとエティエンヌはともに十字軍で聖地へ赴いて没したとされる。別の息子レーモンはガリシア伯となり、カスティーリャ王アルフォンソ7世の父となった。ギーは1119年に教皇に選ばれ、カリストゥス2世を名乗った。
娘たちにも諸侯の家に嫁いだ者が多い。シビーユはブルゴーニュ公ウード1世の妻となった。ジゼルはサヴォイア伯ウンベルト2世と結婚し、のちにモンフェッラート侯ラニエーリ1世と再婚した。クレマンスはフランドル伯ロベール2世の妻となり、のちにブラバント公ゴドフロワ1世と結婚した。エティエンネットは、アデマール・ド・モンテイユの弟であるペラン領主ランベールに嫁いだ。カスティーリャ王アルフォンソ6世の妃ベルトも、ギヨームの娘であった可能性が指摘されている。
同じ年に亡くなった人物
- マフムード・カーシュガリー (1087年(推定))
- ウィクトル3世 (ローマ教皇) (1087年没)
- ウィリアム1世 (イングランド王) (1087年没)
- ベルタ・ディ・サヴォイア (1087年没)
- シャラモン (ハンガリー王) (1087年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャン・メレ (1686年没)
- ジーン・アンティド・トゥール (1826年没)
- ジャンヌ1世 (ブルゴーニュ女伯) (1205年没)
- トゥーサン・ルーヴェルチュール (1803年没)
- ジェームズ・ティソ (1902年没)