伝記
ヘルマン・フォン・ザルムは、一〇三五年ごろに生まれたザルム伯で、ルクセンブルク伯ギゼルベルトの次男である。ヘルマン・フォン・ルクセンブルクとも呼ばれ、ザルム家の始祖とされる。父のルクセンブルク伯領は兄コンラート一世が継ぎ、ヘルマンは一〇五九年からザルム伯となった。兄がドイツ王ハインリヒ四世を支持したのに対し、ヘルマンはのちにその対立王として選ばれることになる。妻はフォルムバッハ伯メギンハルト五世の娘ゾフィーで、夫妻の子にはオットー一世とヘルマン二世がいた。
当時、王と教皇グレゴリウス七世の間では、司教の任命権をめぐる争いが起こっていた。司教が亡くなると、教会での資格をもとに皇帝が後任を指名する慣行があった。ハインリヒ四世が政治的な理由で司教を任命したのに対し、教皇は皇帝を含む俗人による聖職叙任を禁じた。さらに王と教皇の上下関係も争点となり、ハインリヒ四世は破門された。一〇七七年には諸侯がフォルヒハイムに集まり、シュヴァーベン公ルドルフ・フォン・ラインフェルデンを対立王に選んだ。しかしルドルフは一〇八〇年、エルスターでの戦いで受けた傷がもとで死去した。王権に反対する勢力は、その後継となる人物を必要としていた。
ハインリヒ四世がローマでの皇帝戴冠を実現するためにイタリアへ向かった間に、ザクセンとシュヴァーベンの貴族は新たな王を選ぶことにした。彼らを率いたのは、地位を追われたバイエルン公ヴェルフ一世である。一〇八一年八月六日、フランケン地方のオクセンフルトでヘルマンが対立王に選出された。間もなくハインリヒ側のシュヴァーベン公フリードリヒ一世と戦い、ザクセンへ退いたが、十二月二十六日にはゴスラーで戴冠した。式を行ったのはマインツ大司教ジークフリートであった。ザクセンの貴族からは広く支持されたものの、先の対立王ルドルフほど強力な指導者とはならず、ハインリヒ四世の勢力の拡大を抑えられなかった。
ヘルマンはドナウ川沿いで軍を集め、アルプスを越えてイタリアへ進む計画を立てた。しかし、主要な支持者だったオットー・フォン・ノルトハイムの死により、この企ては実現しなかった。一〇八四年にはハインリヒ四世が対立教皇クレメンス三世によって皇帝に戴冠され、ヘルマンはさらに不利な立場となった。翌年、皇帝が大軍を伴ってザクセンへ入ると、デンマークへ逃れた。その後、マイセン辺境伯エクベルト二世が反乱を起こす間にドイツへ戻り、再びヴェルフ一世と手を結んだ。一〇八六年にはマイン川沿いのプライヒフェルトの戦いで皇帝軍を破り、ヴュルツブルクを占領した。
勝利後も同盟者の結束は続かなかった。エクベルト二世は皇帝と和解し、協力者だったハルバーシュタット司教ブルヒャルト二世は殺害された。諸侯の意向に左右される立場に疲れたヘルマンは、家領へ退いた。一〇八八年九月二十八日、コッヘム城の近くで、親族であるライン宮中伯ハインリヒとの小競り合いの際に死去した。これによりザクセンの大規模な反乱は終息した。ザルムの伯位は息子オットーが継いだ。ヘルマンには敵対者から「ニンニク王」とあだ名されたという伝説も残り、その話はのちにグリム兄弟によって伝えられた。
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