HISTORICAL PERSON · 1090年没

ポワチエのウィリアム

ノルマンディー公ウィリアム2世の礼拝堂付き司祭。公のためにノルマン征服を記した年代記『ウィリアム公とイングランド王ウィリアムの事績』を著した。

生涯
1090年没
死亡地
—
出生地
フランス共和国(ウール県 / ポン=オードゥメール)
出典
世界地図
フランス共和国(ウール県)

伝記

ギヨーム・ド・ポワティエは、ノルマンディー公ギヨーム2世、すなわちイングランド王ウィリアム征服王に仕え、その征服事業を記した聖職者である。1020年ごろ、ポン・オードメールに近いレ・プレオーの有力なノルマン人騎士の家に生まれたと考えられている。初めは騎士となる訓練を受けた。この軍事経験は、後に戦争の細部を描く際、一般の聖職者の書き手とは異なる知識を与えたとされる。1049年ごろに騎士としての務めを離れ、教会に入る道を選んだ。ポワティエのサン・ティレール・ル・グランの学校で学び、ノルマンディーに帰った時には、友人や隣人の誰よりも学識を備えていたとオルデリック・ヴィタリスに評されている。

その後、ギヨーム公の礼拝堂付き司祭となり、リジューの助祭長にも任じられたと伝わる。ただし、その地位にあれば名が現れるはずの教会や王、公の証書に姿を見せず、就任の経緯には不確かな部分がある。1066年のイングランド征服の後、『ギヨーム公業績録』の執筆に着手した。執筆の中心は1071年から1077年の間だったと考えられる。公の身近に仕えた経験と騎士としての訓練を持つ立場から、侵攻の準備と征服の経過を叙述し、公がイングランド王位を継いだ正当性を説いた。これはノルマンディー公を対象とした最初の本格的な伝記でもあった。

著書では、公に対する反乱やノルマン人領主の私闘、城をめぐる攻防を取り上げた。城は公が地方を支配するための拠点になる一方、反乱貴族の結集地にもなるものとして描かれている。反乱者ギー・ド・ブルゴーニュが、公の宮廷にとどまることを許されたとも記した。イングランド征服以前の社会については、デーン人が大きな戦利品を持ち帰ったことや、ハロルドが諸公を誘う豊かな財宝を持っていたことを述べた。また、イングランド人が皆自国を愛したと書き、海峡の両側の社会を描き分けた。ヘイスティングズの戦いでも両軍を詳しく記し、公の行動を古代ギリシアやローマの英雄と比較した。とりわけカエサルのブリタニア遠征との比較に多くを費やしている。

自身は歴史家の務めを真実の範囲内にとどまることとしたが、主君への賛美も多かった。公の知性、勤勉、強さをたたえ、50人の騎士を率いて1000人の敵に勝ったという、信じ難い戦闘も語った。晩年について分かることは少なく、征服王の歴史の執筆は「不利な事情」のため中断したとされる。その事情は不明であり、公に反抗した息子ロベールとの関係が理由だった可能性もある。没年は1090年とされる。後にオルデリックは著書を歴史叙述の主要な典拠としたものの、多くの主張を省略し、征服されたイングランド人への王の慈悲についても異なる記述をした。

1619年、アンドレ・デュシェーヌが『ギヨーム公業績録』を刊行した。その時に用いた写本はすでに冒頭と末尾を欠き、現在はその写本自体も失われている。現存する本文が扱うのは1047年から1068年で、始まりも終わりも文の途中である。オルデリックは、もとの著作は1071年までを記していたと述べている。歴史家アントニア・グランズデンは、偏りや非現実的な描写を指摘し、歴史家であると同時に頌徳の書き手でもあったと評した。

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