伝記
ステファノ・ヨハンネス・ポール・クリューガーは、1825年10月10日に生まれ、1904年7月14日に没した、トランスヴァール共和国の政治家で、同国の大統領を務めた。現在の東ケープ州のステインスブルグ付近で、農夫の三番目の子、次男として生まれた。母エルシーは彼が八歳のときに亡くなり、父はまもなく再婚した。正規の教育は旅の家庭教師のもとでの三か月と、父から受けたカルヴァン派の宗教教育だけで、成人してからも聖書以外の本は読んだことがないと語ったという。当時の東ケープは奴隷制の廃止をめぐってボーア人とイギリス政府が激しく対立しており、1836年には一部のボーア人が幌牛車隊を組んで内陸への移住を始めた。グレート・トレックである。十一歳のクリューガーも父とともに加わり、トランスヴァールを目指した。1841年に独立してマガリースバーグ山地のふもとに農場を開き、翌年には結婚した。
コマンド部隊に入って頭角を現し、フェルトコルネットに任命され、のちに国会議員となって憲法制定委員会にも参加した。トランスヴァール共和国が正式に成立したサンドリバー協定の締結の場にも立ち会い、有力者プレトリウスとスクーマンの政治的対立も収めた。1863年にはトランスヴァール共和国軍の最高司令官に任命され、1873年に軍を退いて自分の農場に戻ったが、1874年に内閣に選ばれ、まもなく副大統領に就いた。1877年、内政上の混乱を理由にイギリスが共和国を併合すると、併合に反対して、使節として二度渡英したが交渉は決裂した。1880年12月、パールデクラールの集会でボーア人はイギリスへの徹底抗戦を議決し、クリューガー、軍最高司令官ジュベール、初代大統領プレトリウスの三人の三頭政治体制をとった。第1次ボーア戦争では、1881年2月のマジュバの戦いでジュベールがイギリス軍を撃破し、同年8月のプレトリア講和条約で共和国は独立を回復した。
1883年4月の大統領選挙で、クリューガーはジュベールを破り、同年5月9日に大統領に就任して、以後四期連続で当選し、1900年まで務めた。飾らない態度と独立を力強く訴える姿勢が、地方の保守的なボーア人から強く支持された。1886年にヨハネスブルクで金鉱が発見されると、財政は急速に好転したが、大量に流入したイギリス系移民によって、ボーア人は白人の中でも少数者に転落する危惧を抱いた。クリューガーは選挙権を14年以上居住した白人に限る選挙法に改め、これがイギリス系の不満を招いた。ケープ植民地首相ローズはトランスヴァールに圧力をかけ、クリューガーはモザンビークの港への鉄道を建設して対抗し、ドイツ帝国とも接近した。1895年にジェームソン襲撃事件が起き、イギリスを激しく非難し、ドイツ皇帝から祝電が届いたが、これでイギリスとの対立は決定的となった。
1899年に和平会談が決裂すると、イギリスに宣戦布告し、第2次ボーア戦争が始まった。地力に勝るイギリス軍に押され、1900年6月5日に首都プレトリアが陥落し、10月にクリューガーはモザンビークへと追い込まれて、オランダの巡洋艦でマルセイユへ向かった。各国を訪れて窮状を訴えたが救援は得られず、1902年に敗戦し、スイスに亡命した。1904年7月14日、亡命先のヴォー州クラレンスで死去した。遺体は南アフリカに戻され、国葬の後、プレトリアに葬られた。見事な髭と黒いフロックコート、シルクハット、パイプが彼のトレードマークとなった。敬虔なオランダ改革派教会の信徒だった。クルーガー国立公園は彼を記念して命名された。
同じ年に亡くなった人物
- ジェイムズ・ロングストリート (1904年没)
- ピエール・ワルデック=ルソー (1904年没)
- ジャムシェトジー・タタ (1904年没)
- エルンスト・ツー・ライニンゲン (1904年没)
- アンリ・J・ペロタン (1904年没)
同じ地域に関係する人物
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- ジョージズ・アンドレ・シェバラズ (2002年没)
- アルフレッド・コルトー (1962年没)
- リアーヌ・ド・プジー (1950年没)
- アンヌ・アントワネット・ド・ブルボン=パルム (2016年没)