伝記
エルンスト・カール・アッベは、1840年1月23日に生まれ、1905年1月14日に没したドイツの物理学者、光学技術者、実業家、社会改革者である。オットー・ショットやカール・ツァイスとともに数々の光学機器を開発し、顕微鏡や望遠鏡などの高度な光学系を製造するカール・ツァイス社の共同経営者でもあった。
ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国のアイゼナハで、紡績工場の現場責任者ゲオルク・アダム・アッベと、母エリーザベトの子として生まれた。裕福な家ではなかったが、父の会社の支援を受けて中等学校に通い、アイゼナハのギムナジウムを優秀な成績で、1857年に卒業した。科学的才能と強い意志は明らかで、父は家計が苦しいにもかかわらず、大学へ行かせることを決めた。1857年から1859年までイェーナ大学、1859年から1861年までゲッティンゲン大学に学び、家庭教師で収入を得ながら、父の会社の援助も受けた。1861年3月23日にゲッティンゲン大学で博士号を取得した。在学中にはリーマンやヴェーバーの影響を受けた。その後、ゲッティンゲンの天文台やフランクフルトの物理学協会で短期間働き、1863年8月8日にイェーナ大学の講師の資格を取得した。1870年に准教授、1879年に正教授となり、1878年には天文台の所長に就任した。1889年にバイエルン科学アカデミーの通信会員になり、ザクセン科学アカデミーの会員でもあった。1871年には、恩師の一人である数学者カール・スネルの娘エルゼと結婚している。
1866年に大学の機械工カール・ツァイスから、顕微鏡の調整に科学的な基礎を与えてほしいと申し出を受けたことが、職業人生の決定的な転機となった。当時の顕微鏡の製造は試行錯誤に頼っていた。アッベの計算に基づく最初の顕微鏡は、従来の方法でつくったものより性能が低かったが、これが彼を奮い立たせて、顕微鏡における結像の理論へと導いた。1872年にはアッベが改良した顕微鏡の販売が始まり、1873年には顕微鏡の分解能の限界を表す式を発表した。1876年にツァイスからパートナーシップを申し出られ、1878年には顕微鏡用の均質な液浸系を初めて構築した。1886年には色収差を除去した対物レンズ「アポクロマート」を発明している。開口数を定義した最初の人物でもあり、透明な物質の屈折率の波長による変化を表すアッベ数も生み出した。1884年に、ツァイス父子とショットとともに、光学ガラスを研究・製造する会社を設立した。アッベの成果は非常に画期的で、ゼルニケはその計算に基づいて位相差顕微鏡を研究し、1953年にノーベル物理学賞を受賞した。
労働改革でも第一線で活躍した。1889年に財団を設立して寄付を行い、従業員の雇用保障を向上させる目的を掲げた。1900年には、実父の14時間労働を反省して八時間労働制を導入し、年金基金なども創設した。従業員の成功は出自や宗教、政治的見解ではなく、能力と実績のみに基づくべきだと強調した。1896年には、ツァイス光学工場を利益分配のある協同組合に改組した。1891年にイェーナ大学での教職を退き、1905年にイェーナで亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
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同じ地域に関係する人物
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