伝記
ハミルカル・バルカは、古代カルタゴの将軍であり政治家である。紀元前275年頃に生まれ、紀元前228年に没した。第二次ポエニ戦争でローマを追い詰めたハンニバルの父として知られ、ハシュドゥルバルやマゴの父でもある。個人名のハミルカルはフェニキア語の名がギリシア語・ラテン語で表記されたもので、「メルカルトの僕」の意とされる。家族名のバルカは「電光」を意味する語に由来し、ヘブライ語の同じ意味の語と同源である。
バルカ家の出自については、ポエニ戦争以前のことはほとんど分かっていない。キュレネ、現在のリビアの出だという説もあり、カルタゴの土地を持つ貴族層に属していたとも言われる。ハミルカルは紀元前247年、28歳のころにシチリア島のカルタゴ軍の指揮権を得た。この時点で娘が3人おり、同じ年に息子ハンニバルが生まれている。第一次ポエニ戦争は紀元前264年に始まって長引き、カルタゴ本国は北アフリカでの遠征も抱えて疲弊していた。ハミルカルに与えられたのは比較的小さな軍勢で、艦隊も次第に引き揚げられていった。当時のカルタゴは土地を持つ貴族層が指導しており、シチリアでの積極策よりも北アフリカへの拡張を好んだという。資金も乏しく、ハミルカルの戦略上の目標は、勝利でも和平の締結でもなく、膠着状態の維持にあったと見る説もある。
彼は各地の傭兵からなる軍を率い、シチリア北西の海岸に上陸してパレルモ近郊のエロテ山を占拠し、攻撃を受けても守りを固めるだけでなく、イタリア半島南部にも攻撃を仕掛けた。紀元前244年にはエリュクス山、現在のエーリチェに移り、包囲された味方を援護した。攻めてくるローマ軍はことごとく退け、彼の軍は無敗であったとされる。しかし本国の海軍が敗れたことを機に紀元前241年に和議が成立し、ハミルカルは降伏の意志のないまま、カルタゴへ戻らざるを得なかった。この戦争はカルタゴの敗北に終わった。
戦後、傭兵への報酬は、大ハンノを中心とする政府内の反ハミルカル勢力によって反故にされ、傭兵たちは反乱を起こした。危機を感じた政府はハミルカルに鎮圧を要請し、彼はこれを成功させた。バグラダス川やのこぎりの戦いでの勝利が、その働きとして挙げられる。この鎮圧でアフリカにおける彼の名声と影響力は大いに高まり、政敵は彼に抗しきれなくなった。
ハミルカルはこの名声を背景に自分の軍を募った。ヌミディアなど各地から傭兵を集めて訓練し、ヒスパニアへ出征して、カルタゴ政府の干渉を受けない自らの勢力圏を築くことを決意する。シチリアを失ったカルタゴを支えるための新天地の開拓という考えであった。遠征には息子ハンニバルも同行した。幼いハンニバルを神殿に連れて行き、ローマを討つことを誓わせたという逸話は非常に有名である。
彼は8年にわたってヒスパニアでカルタゴの領土を広げ、支配を固めつつあった。拠点としてカルタゴ・ノウァを建設していたが、その完成を見ることなく、紀元前228年に戦死した。遺志は娘婿のハシュドゥルバルに受け継がれた。ハンニバルが第二次ポエニ戦争で実行した戦略は、父ハミルカルが構想したものであった可能性もあるとされる。関連する作品としては、フローベールの歴史小説『サランボー』が挙げられる。
同じ年に亡くなった人物
- エウダミダス3世 (紀元前228年没)
同じ地域に関係する人物
- フアン・デ・リベラ (1611年没)
- エイドリアン・カンポス (2021年没)
- ルイ・ベルトラン (1581年没)
- St. Teresa of Jesus Jornet (1897年没)
- フェルナンド・デ・アラゴン (カラブリア公) (1550年没)