伝記
オフリドのレオンは、11世紀のビザンツ帝国の聖職者であり、東西の教会が対立を深めた時期にオフリド大主教を務めた。幼少期や出自は分かっていない。大主教となる前には、コンスタンティノープルのハギア・ソフィアで文書管理を担うハルトフィラクスの職にあった。大主教への任命は1037年以降とも、1025年ともいわれる。任地のオフリドは、現在のマケドニアにある町で、アクリダという名でも知られる。レオンはコンスタンティノープル総主教座の見解を代表し、ローマ側の聖職者との神学的な論争に関わった。ミハイル・ケルラリオスが総主教となった時期には、その代弁者として南イタリアの教会人たちとの討論に送り出された。
1053年、レオンはトラーニ司教ヨハネスに書簡を送り、西方教会の典礼や慣行を批判した。宛名は一人の司教だったが、実際には教皇とラテン世界のすべての司教に向けられた文章であった。問題としたのは、血を含む絞め殺した動物の肉を食べることや、土曜日に断食を行うこと、その他の儀礼上の習慣である。土曜日の断食は、トルッロ教会会議の規定に反するものとされた。なかでも強い対立を生んだのは、聖餐に用いるパンであった。西方では種を入れないパンを用いたのに対し、東方では酵母で発酵させたパンを用いていた。レオンは西方の慣行をユダヤ教化と捉えて非難した。この書簡によって、東西の隔たりは典礼と教会規律の具体的な問題をめぐる論争として表面化していった。
書簡はシルヴァ・カンディダの枢機卿フンベルトゥスとの応酬を引き起こした。イタリアでノルマン人と戦っていたビザンツの将軍アルギュロスも、この対立に関与した。アルギュロスは枢機卿に対し、レオンの背後にはケルラリオスがおり、総主教がコンスタンティノープルのラテン教会を閉じたのも典礼を改めさせるためだったと説いた。教皇レオ9世の側も、ローマ教会の慣行を批判する総主教とレオンの双方を問題にした。一方、皇帝コンスタンティノス9世は、総主教からの圧力も受け、アルギュロスを都へ呼び戻した。将軍がレオンと総主教への敵意をあおり続けるのを防ぐためだったとされる。
1054年にはフンベルトゥスら教皇の使節がコンスタンティノープルに赴いた。教皇使節による破門はケルラリオスだけでなくレオンにも及び、総主教の側は使節たちを排斥した。この一連の出来事は、後に東西教会の分裂と呼ばれるものとなった。レオンはその後もオフリド大主教の地位にあり、1056年に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- のっぽのトルケル (1100年(推定))
- レオンティ・ムロヴェリ (1100年没)
- アルベリック (1100年代没)
- Ibn Jazla (1100年没)
- エドマンド・オブ・スコットランド (1100年)
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