HISTORICAL PERSON · 1101年没

道宗 (遼)

遼の第8代皇帝。仏教に傾倒し寺院造営に国費を費やす一方、寵臣耶律乙辛の専権を許して皇后や皇太子を死に追いやるなど朝政が乱れた。

生涯
1101年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

道宗は、1032年9月14日、遼の興宗の長男として生まれた。契丹名は査剌、漢名は耶律洪基である。早くから皇太子に定められて朝政に参加し、1055年8月、父の死によって第8代皇帝となった。治世の初めには農業の振興、学校の建設、災害救済に努めた。1056年には山西の応県で釈迦塔が建てられた。宮廷では蕭革と蕭阿剌が強い権限を持ったが、二人は対立し、蕭阿剌は1059年に東京の留守へ転じた。同年、部族の裁判官が下した死刑判決については、地方の長官が審査し、不服がある場合は中央で判断するよう命じた。

1061年、宮廷に戻った蕭阿剌が政治を厳しく批判すると、蕭革の告発を受けた道宗は、母の仁懿皇后の嘆願にもかかわらず絞殺を命じた。1063年には、皇太叔と天下兵馬大元帥に任じていた叔父の孛吉只と、その子涅魯古が反乱を起こした。道宗は狩猟の途中で襲われ、馬が倒れて負傷したが、従者に救われた。母の仁懿皇后が近衛兵を率いて抵抗し、耶律仁先や耶律乙辛らも平定に当たった。涅魯古は矢に当たって死に、孛吉只も逃走後に自殺した。共謀者の南京留守耶律明は孛吉只の死を知っても抵抗をやめず、奚の兵を率いて都へ入り、武器を与えた。しかし副官が漢人の守備兵を動員して対抗し、耶律明も処刑された。首謀者とその家族が処刑され、遼の支配層は大きく入れ替わった。

1066年、道宗は国号を大契丹から大遼に戻した。1070年には漢人と契丹人の慣習の違いを反映させるため、法制度を組み替えた。一方で狩猟と仏教に傾き、寺塔の建立や僧尼への布施に多額の国費を費やした。治世には遼版の大蔵経も完成した。1072年に耶律仁先が死去すると、その影響力に対抗する者を失った耶律乙辛が専権を強めた。1075年、耶律乙辛は張孝傑と結び、皇后蕭観音が宮廷の楽人趙惟一と密通したという罪をでっち上げた。道宗は告発を信じ、趙惟一の一族を処刑し、皇后には自殺を命じた。皇太子耶魯斡は母の死への復讐を誓ったが、1077年には自らも謀反の企てに加わったと讒言され、幽閉された。耶律乙辛は使者を送って皇太子を暗殺し、病死と報告させた。皇太子の妻も道宗に召されて宮廷へ向かった際に殺された。道宗は処分の後、ほどなく自分の行為を悔やんだという。

皇后の後には耶律乙辛の一派に近い蕭坦思が立てられたが、皇子は生まれなかった。唯一の皇子を失った道宗は、その子の阿果を後継者に定めるようになった。1079年の冬の狩猟に際し、耶律乙辛は孫を宮廷に残すよう勧めたが、廷臣の反対を受けて道宗は同行させた。1080年に耶律乙辛は降格され、興中へ送られた。1081年には皇太孫への加害を企てたことが露見したとされ、1083年、武器を隠して宋へ逃れようとして処刑された。これによって皇太孫の地位は安定し、宮廷内の混乱は収まった。

しかし1092年から1100年にかけては、モンゴル高原で北阻卜の首長磨古斯が反乱を起こした。土地の兼併によって民衆の不満も強まり、東北部では圧迫を受けた女真が反抗した。道宗は1101年2月12日、行宮で死去した。数え年で70歳、在位は四十七年に及んだ。遺詔に従って孫の阿果が帝位を継ぎ、天祚帝となった。

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