HISTORICAL PERSON · 1906年没

ヘンリック・イプセン

ノルウェーの劇作家。『人形の家』『ペール・ギュント』などを著し、近代演劇の父と称される。世界で最も上演される劇作家の一人。

生涯
1906年没
死亡地
ノルウェー王国(クリスチャニア)
出生地
ノルウェー王国(テレマルク県 / Stockmanngarden)
出典
世界地図
ノルウェー王国(テレマルク県)

伝記

ヘンリック・イプセンは、1828年3月20日、ノルウェー南部テレマルク県の木材輸送で栄えた港町スキーエンで生まれた劇作家・詩人・舞台監督で、「近代演劇の父」と称される。父クヌートは船乗りの家系から出て商人となり、初めは成功を収めた。母マリーア・コルネーリア・アルテンブルクは、町の裕福な材木商の娘だった。イプセン自身、両親はともにスキーエンで最も尊敬される家の出だったと書簡に記している。しかし8歳のころ、父の事業が大きく傾き、一家は市街の大きな屋敷を売り、郊外の小さな夏の別荘ヴェンストプに移り住むことになった。生まれつき内気だった少年は、いっそう孤立して無口になった。家の雰囲気も重く、父は支配的で酒におぼれ、母は従順で宗教に慰めを求めた。幼いころの楽しみは絵を描くことで、のちにも買い集めた絵画を手元に置いたという。のちに一家は、父の異父兄で裕福な銀行家・船主のパウスが所有する町の家に移った。こうした生い立ちは後年の作品に影を落とし、作中の人物はしばしば両親を映し、経済的な苦境や社会に隠された秘密による道徳的な葛藤を扱った。

十代のころは神学に惹かれ、聖書をよく読んだが、16歳のとき、家の貧しさから職業を選ばねばならず、グリムスタの薬剤師ライマンのもとに徒弟として入り、約5年間働いた。1846年、18歳のとき、ライマン家の女中との間に私生児のハンスが生まれ、イプセンは義務感から養育費を送ったが、息子に会うことはなかった。その後、薬局は新しい主人のものとなり、イプセンはほとんど一人でそれを切り盛りした。1850年に処女作の戯曲『カティリーナ』を発表し、やがて劇場の座付作者兼舞台監督、演劇指導者になった。『愛の喜劇』(1862年)、『王位請求者たち』(1863年)に続いて『ブラン』(1865年)、『ペール・ギュント』(1867年)を発表した。『ペール・ギュント』には1874年にグリーグが劇音楽を作曲している。『社会の柱』(1877年)、『人形の家』(1879年)、『幽霊』『民衆の敵』『野鴨』『ロスメルスホルム』『海の夫人』『ヘッダ・ガーブレル』『棟梁ソルネス』などが続き、最後の戯曲は『わたしたち死んだものが目覚めたら』(1899年)である。

ノルウェー自体は好まず、27年間をイタリアとドイツで過ごし、最も創作の盛んな時期にはほとんど帰国しなかった。ヴィクトリア朝的な家庭生活や礼儀の価値観が広まっていた当時、彼の劇は多くの人にスキャンダラスと考えられた。善が幸福をもたらし不道徳は苦痛のみをもたらすという結末が期待された時代に、イプセンはこの考えに挑み、観客の幻想を破壊した。主に現代劇を通じて、生活状況や道徳問題への批判的な眼を示した。日本の新劇運動は彼の劇の上演から始まったといえ、『人形の家』のノラは「新しい女」として語られた。中国でも1918年に雑誌『新青年』が特集を組み、女性解放運動に大きな影響を与えた。1906年5月23日にクリスチャニアで亡くなり、長らくノルウェー最高額の1000クローネ紙幣にその肖像が描かれた。2007年にはノルウェー政府により国際イプセン賞が創設された。

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