HISTORICAL PERSON · 1104年没

ドゥカーク

シリア・セルジューク朝ダマスクス政権のスルタン。兄弟リドワーンとの不仲や支配力の弱さから十字軍の侵攻に有効な対策を取れないまま没した。

生涯
1104年没
死亡地
シリア共和国(ダマスカス県 / ダマスカス)
出生地
—
出典
世界地図
シリア共和国(ダマスカス県)

伝記

ドゥカークは、シリアのセルジューク朝を支配したトゥトゥシュの息子である。父は大セルジューク朝のスルタン、マリク・シャーの弟であった。1095年、父がマリク・シャーの遺児バルキヤールクとの戦いで敗死すると、兄のリドワーンは父の領土を独占しようとした。兄弟のアブー・ターリブとバフラームは殺されたが、ドゥカークはバクタクとともにダマスクスへ逃れ、現地の支配者として認められた。リドワーンはアレッポを中心とするシリア北部を、ドゥカークはダマスクスを得た。二人ともバルキヤールクの宗主権を認めず、スルタンを称したが、互いの敵意は深く、協力する関係にはならなかった。

1097年だけでも兄弟間では二度の戦争があった。その年、十字軍がアンティオキアを包囲すると、同市の支配者ヤーギー・シヤーンはドゥカークに救援を求めた。ヤーギー・シヤーンは直前の争いでドゥカークを助けたため、宗主であるリドワーンと不仲になっていた。ドゥカークは出兵中に兄から攻められることを恐れてためらい、ようやく十二月に動いた。アル・バーラで、包囲軍の食糧を調達していたボエモンとフランドル伯ロベールの部隊と遭遇し、軍を打ち破られた。ただし十字軍側も南下を続けられず、補給を得ないままアンティオキアへ戻った。

1098年には、モスルのアタベクであるケルボガが集めた大軍に合流した。連合軍が6月5日に到着した時には、アンティオキアはすでに二日前に十字軍へ落ちていた。ケルボガは抵抗を続けていた城塞を引き渡させ、シリアで覇権を握る意図を隠さなかった。ドゥカークはこれに不満を持つ諸侯の中心となり、連合軍の内紛は分散を招いた。6月28日の戦いでケルボガ軍は敗れ、十字軍の進出を止められなかった。同年夏にはファーティマ朝が、ドゥカークの配下スクマーンの守るエルサレムを奪った。

1100年5月、ゴラン地方の配下の領主が家畜や収穫物を繰り返し襲われたため、ドゥカークは略奪品を運ぶゴドフロワとタンクレードを攻撃した。相手は損害を出しながら逃れたが、タンクレードは報復としてダマスクス近郊の果樹園や村を荒らした。ドゥカークは大金を払って退去させようとした。ところが相手の六人の使者は、キリスト教への改宗かダマスクスの引き渡しを要求した。怒ったドゥカークは逆にイスラームへの改宗を求め、一人は応じたが、残る五人は斬首された。その後も十字軍は十日間にわたり周辺を荒らし、保護を得られないと悟ったゴランの領主はエルサレム王国の庇護下へ移った。

同年10月、ドゥカークは兄の後を継ぐためエルサレムへ向かうボードゥアンを、ベイルート付近のナフル・カルブ川の渡河地点で待ち伏せた。しかし、ダマスクスの勢力拡大を恐れたトリポリのファフル・アル・ムルクが相手に知らせ、短い戦闘の後にドゥカーク軍が退いた。1102年には、そのファフル・アル・ムルクの求めでトリポリ救援に向かったが、十字軍に阻まれた。やがてエルサレムの宮廷との外交交渉も始めた。1104年6月に死去すると、アタベクのトゥグ・テギーンが遺族を名目上の支配者として実権を握り、のちにブーリー朝を開いた。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物