伝記
イリア・チャヴチャヴァゼは、1837年11月8日に、当時ロシア帝国の一部であったジョージア(グルジア)のカヘティ地方、アラザニ渓谷のクヴァレリ村で生まれた作家、政治家、詩人、出版者である。19世紀後半のロシア帝国による統治時代に、ジョージアの国民運動の復活を主導し、「最も普遍的に尊敬される英雄」とされる。大領主の称号タヴァディの家に生まれ、チャヴチャヴァゼ家は1726年に国家への勲功で国王から爵位を授かったと考えられている。父グリゴルは、祖先と同じく軍人で、地元の民兵とともに、度重なるダゲスタンの侵略から村を守った。母マリアム・ベブリシヴィリは、ジョージアの小説や詩の大半を暗記し、子供たちにも習わせたという。イリアは三男であった。
村の執事から初等教育を受け、トビリシに移って1848年に貴族のアカデミーに入ったが、母のマリアムはその年の5月に、イリアが10歳のときに亡くなった。父は姉妹のマクリネに子供たちの世話を頼んだ。イリアは3年間私立学校に通ってから、1851年にトビリシの第1アカデミーに入学したが、まもなく父も亡くなり、マクリネおばが一家の面倒を見た。さらに、ダゲスタンによるカヘティの襲撃で弟のコンスタンティネが殺され、一家は壊滅的な打撃を受けた。イリアは、最初期の短い詩の一つ『貧しい人の悲しみ』に苦悩と悲しみを表現した。
アカデミーを卒業すると、ロシアのサンクトペテルブルク大学で学ぶことにした。出発前の1857年4月15日には、最も注目すべき詩『クヴァレリの山々へ』を詠み、大コーカサス山脈への賛美と祖国を離れる悲しみを表した。同年に入学を許可されたが、学生時代にはヨーロッパで革命が相次ぎ、イタリアの出来事と、長年尊敬してきたガリバルディの奮闘に関心を注いだ。サンクトペテルブルクの厳しい気候のために重い病に罹り、1859年には数か月間帰国した。1861年に学業を終えてジョージアに戻る帰路で、作品『旅人の日記』を執筆した。
彼の政治的、社会的な目標は、愛国心に基づいていた。ジョージア語の復活と文学の涵養、ジョージア国教会の独立教会としての地位の復活、ロシア帝国の一部となって終焉を迎えた国家の復活を急進的に唱えた。『隠者』『盗賊カコ』『旅人の手紙』などの作品を書き、定期刊行物『サカルトヴェロス・モアンベ』と『イヴェリア』の編集長を務めて、数多くの雑誌記事を執筆した。「貴族銀行」、「演劇協会」、「ジョージア歴史民族誌学会」など多くの公共、文化、教育機関も創立した。領土、言語、キリスト教を民族のアイデンティティの指標とし、彼のナショナリズムは世俗的だった。この考えには、メンシェヴィキのノエ・ジョルダニアのような社会民主主義者が反対した。若きスターリンの文学のメンターとして短期間活動したともいう。1906年から1907年はロシアの国務院議員を務めた。
1907年に、妻オルガとともにトビリシからムツヘタ近郊のサグラモへ向かう途中、待ち伏せていた六人の暗殺者の一団に襲われ、致命傷を負って死亡した。その死は国民的悲劇として嘆かれた。殺害したのはボリシェヴィキだと広く信じられているが、暗殺は今日も議論の的となっている。1987年にはグルジア正教会から「正義の聖イリア」として列聖され、今日ジョージア人は、彼を無冠の王や建国の父として崇めている。
同じ年に亡くなった人物
- ルイス・サエンス・ペーニャ (1907年没)
- デジレ・アルトー (1907年没)
- ハインリヒ・デルンブルヒ (1907年没)
- エクトール・アンリ・マロ (1907年没)
- ソーフス・ブッゲ (1907年没)
同じ地域に関係する人物
- ファーズマン2世 (138年没)
- ラマズ・シェンゲリア (2012年没)
- ミリアン3世 (361年没)