伝記
アサフ・ホールは、1829年10月15日、コネチカット州ゴーシェンに生まれたアメリカ合衆国の天文学者で、火星の2つの衛星ダイモスとフォボスを発見したことで知られる。父アサフ・ホール2世は時計職人、母はハンナ・パーマーで、父方の祖父アサフ・ホール1世は独立戦争の士官で、コネチカット州議会の議員でもあった。父が1842年に亡くなったとき、彼は13歳で、一家は経済的に困窮し、16歳で学校を去って大工の徒弟となった。のちにニューヨーク州マックグロービルのセントラル・カレッジに入学して数学を学び、そこで幾何学とドイツ語の講師だったアンジェリーン・スティックニーの授業を受けた。1856年に二人は結婚した。
同じ1856年にはハーバード大学天文台に職を得て、軌道計算の専門家となった。1862年にアメリカ海軍天文台の観測助手となり、着任から1年のうちに教授に任命された。1872年6月5日には、論文「πの実験的決定について」を『メッセンジャー・オブ・マセマティクス』誌に発表している。これは、第二次ブルランの戦いで負傷して療養中だった友人のフォックス大尉に、細い鋼線を平行線を引いた木の板に繰り返しでたらめに投げさせた実験の結果を報告したもので、ビュフォンの針の問題の実験である。この論文は、科学的研究で無作為抽出が用いられた非常に早い記録であり、のちにマンハッタン計画の際にメトロポリスがモンテカルロ法と名付けた方法につながる。1875年には、当時世界最大級の口径66センチ(26インチ)の望遠鏡の責任者となった。
1877年の火星の大接近のとき、ホールは妻アンジェリーンに励まされて、火星の衛星を探した。計算では衛星の軌道は惑星のごく近くにあるはずだった。彼は「衛星を見つけられる見込みはごくわずかに思えたので、妻の励ましがなければ探索をあきらめていたかもしれない」と書いている。8月10日に衛星らしいものを見たが、悪天候のため確かめられず、16日の夜の観測でそれが惑星とともに動くことがわかり、衛星だと思った。助手のジョージ・アンダーソンには黙っているよう頼んだが、秘密にしておくのは惜しく、自分から話したという。17日には、観測値を整理していた部屋に昼食をとりに入ってきたニューカム教授に、その測定結果を見せた。こうして1877年8月12日にダイモスを、8月18日にフォボスを発見した。
そのほかに、土星の白い斑点を目印にして自転周期を見積もり、1884年には土星の衛星ヒペリオンの楕円軌道の位置が、1年に約20度ずつ逆行していることを示した。ほかの惑星の衛星や二重星の軌道、火星の質量も求めた。恒星の視差やプレアデス星団の星の位置も調べている。1875年にはヘンリー・プリチェットを海軍天文台で徒弟として指導した。1879年に王立天文学会のゴールドメダルを受けた。1907年11月22日に亡くなった。月のホール・クレーターと、フォボスの同名のクレーター、小惑星(2023)アサフと(3299)ホールに名が残る。フォボス最大のクレーターは、妻の旧姓にちなんでスティックニー・クレーターと名付けられた。
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