伝記
ジョリス=カルル・ユイスマンスは、1848年2月5日、パリのシュジェ通り11番地(現9番地)に生まれたフランス世紀末の作家、美術批評家である。本名はシャルル・マリ・ジョルジュ・ユイスマンス。イギリスのオスカー・ワイルドとともに、代表的なデカダン派の作家とされる。父はオランダ人のヴィクトル・ゴドフリドゥス・ヨハネスで、石版画や細密画を手がける画家の家系の出であり、母はフランス人で学校の教師のマルヴィナ・バダンだった。小市民の家庭に育ち、幼い頃はずっとその家で過ごした。1866年に内務省に入り、生涯の官吏生活を続けた。勤勉に勤めて、退職の際には内務大臣からレジオン・ドヌール勲章を授けられた。
1874年に、散文詩風の最初の作品集『薬味箱』を自費出版した。オランダやフランドルの画家たちと、詩人ヴィヨンへの敬意が示された、デカダン、自然主義、象徴主義、ロマン主義の混ざり合う作品である。1876年には、最初の小説『マルト、一娼婦の物語』を出した。貪欲で良心のない社会に追い込まれ、生きるために身を売らざるをえなくなるパリの若い女性の生涯を描いた自然主義の作品で、検閲を恐れてブリュッセルで出版した。この年、エミール・ゾラと親しくなり、その『居酒屋』を擁護する熱のこもった記事を書いた。この記事は自然主義の最初期の宣言の一つとして文学史に残る。1879年の『ヴァタール姉妹』はゾラに捧げられ、ゾラを文学上の師と認めた。以後、メダンのゾラの別荘に集う若い作家たちのグループに属し、モーパッサンらと、1880年に共同の短編集を出した。同じ1880年には、イエズス会士の追放に反対する日刊紙『ゴーロワ』に協力したが、上司の圧力で手を引いた。
しかし、ボードレールや、画家のギュスターヴ・モロー、オディロン・ルドンの影響を受けて、ゾラ流の自然主義から離れていった。1884年の『さかしま』は、貴族の美的趣味の隠遁者が、芸術と人工によって現実から逃れようとする物語で、ペシミズムから生まれた人工の楽園を描き、世紀末の傾向が強かった。当時は多くの非難を浴びたが、「デカダンスの聖書」「象徴派の宝典」と呼ばれる代表作となり、若き日のポール・ヴァレリーやワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』にも影響を与えた。『さかしま』は詩人マラルメを取り上げ、それまでほとんど無名だった詩人を一躍有名にした。1887年の『仮泊』などを経て、1891年の『彼方』では黒ミサなど悪魔主義を取り上げた。魔術師を自称するジョゼフ=アントワーヌ・ブーランらと親交があったことが関係している。この作品で、「心霊的自然主義」という新しい文学の流れを自ら定義した。
その後、カトリックに改宗し、ショーペンハウアーへの傾倒に終止符を打った。改宗の過程を描いた『出発』(1895年)、シャルトル大聖堂とキリスト教の象徴学を語る『大伽藍』(1898年)、『修練者』(1903年)と、カトリックの神秘思想を扱う作品を書いた。中世への郷愁と中世美術への深い知識がそこに表れている。晩年は舌癌に苦しみ、病苦のなかで執筆を続けた。1907年5月12日、パリで死去した。シュルレアリスムのアンドレ・ブルトンも彼を深く賞賛し、その影響は後世に及んだ。
同じ年に亡くなった人物
- ルネ・ポティエ (1907年没)
- オットー・ゴルトシュミット (1907年没)
- コンスタンチン・ポベドノスツェフ (1907年没)
- ルイス・サエンス・ペーニャ (1907年没)
- ザカリー・アストリュク (1907年没)
同じ地域に関係する人物
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- ミシェル・ブラヴェ (1768年没)
- ヴァレンティン・マニャン (1916年没)
- アルベール・ルブラン (1950年没)
- シャルル・ミシェル・ド・レペー (1789年没)