HISTORICAL PERSON · 1112年没

ズビグニェフ (ポーランド公)

ポーランド大公。異母弟ボレスワフ3世に追放されドイツへ逃れて皇帝の遠征に加わったが敗れ、後に騙されて帰国したところ両目を潰されて死んだ。

生涯
1112年没
死亡地
ポーランド共和国(マウォポルスカ県 / Tyniec)
出生地
ポーランド共和国(ポーランド)
出典
世界地図
ポーランド共和国(マウォポルスカ県)

伝記

ズビグニェフは、1070年代初めに生まれた、ポーランドの支配者ヴワディスワフ一世ヘルマンの長男である。母は名のわからないポーランド人女性で、父より身分が低かったと考えられている。両親の結びつきは教会の式を経ないスラヴの慣習によるものだったとされ、そのためカトリック教会の一部から嫡出性を疑われた。一方、古い慣習では正当な婚姻の子に当たるとして、貴族たちは後継者と見ていた。母をプラヴジツ家の出身とする説もあるが、その時代に同家が存在したかどうかも確かでない。1079年、父は兄ボレスワフ二世の失脚後にポーランドの支配者となった。

1080年、父はボヘミア公ヴラチスラフ二世の娘ユディトと結婚した。このころまでにズビグニェフの母は没したか、婚姻を解かれていたとされる。1086年、父はハンガリーに亡命していた甥ミェシュコとその母を呼び戻し、ミェシュコにクラクフの地域を与えた。同年、ユディトがのちのボレスワフ三世を産むと、長男の立場は大きく変わった。ズビグニェフはまだ司祭となるには幼かったが、クラクフの聖堂参事会に入れられ、聖職者の道へ進むことになった。祖母マリア・ドブロネガが学業を導き、最初の教師オットーは、宗教の教えに加えて弁証法、文法、セビリアのイシドールスの著作を教えたという。オットーはのちにバンベルク司教となる。ズビグニェフは宮廷から遠ざけられ、ドイツのクヴェードリンブルク修道院でも長く暮らした。

1093年、ズビグニェフはポーランドへ戻った。当時は宮中伯シエチェクが実権を握っており、シロンスクの一部の有力者の反対運動が帰国を実現させ、父に彼を後継者として認めさせた。シエチェクと、父の後妻ユディト・マリアによる策動に対し、ズビグニェフは異母弟ボレスワフと手を結んだ。二人は父に国土の分割とシエチェクの追放を迫り、1098年にそれぞれ領地を与えられた。兄弟はこの段階では、父の宮廷に対抗する協力者であった。しかし1102年に父が没すると、北部を得たズビグニェフと弟は対等な統治者となり、両者の関係は対立へ変わっていった。

ズビグニェフの支配地はヴィエルコポルスカ、クヤヴィ、マゾフシェに及んだ。年長である自分こそ唯一の正当な継承者だと考え、弟に対抗する同盟者を求めた。1102年から1106年にかけて主導権をめぐる兄弟間の戦争が続き、ズビグニェフは敗れた。1107年には国を追われ、ドイツへ逃れて神聖ローマ皇帝ハインリヒ五世の支援を求めた。1109年、皇帝はズビグニェフの復帰を名目にポーランドへ侵攻し、ズビグニェフ自身も遠征に参加した。しかし皇帝軍はグウォグフなどでボレスワフ三世に阻まれ、兄の復位は実現しなかった。

その後、ボレスワフ三世はボヘミアを屈服させることができず、1111年にボヘミアおよび皇帝との和議を結ぶ必要に迫られた。皇帝が求めた条件の一つが、ズビグニェフを帰国させることであった。ズビグニェフはポーランドに戻り、小さな領地を与えられたが、まもなく両目を潰された。その後に没したとされ、没年には1112年と1113年の説がある。帰国が罠であったともいわれるが、最期の詳しい事情は確定していない。

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