HISTORICAL PERSON · 紀元前211年没

アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前212年の執政官)

第二次ポエニ戦争期のローマの政務官で、父と3人の息子も執政官。シキリアでシュラクサイ包囲戦を指揮し、紀元前212年に執政官となり、カプア包囲中にハンニバルと戦って負傷、降伏の前後に没した。

生涯
紀元前211年没
死亡地
イタリア共和国(カゼルタ県 / ancient Capua)
出生地
古代ローマ
出典
世界地図
イタリア共和国(カゼルタ県)

伝記

アッピウス・クラウディウス・プルケルは、第二次ポエニ戦争期の共和政ローマの政務官である。生年は不詳で、紀元前211年に没した。紀元前212年に執政官(コンスル)に選ばれた。父はプブリウス・クラウディウス・プルケル(紀元前249年の執政官)で、息子のアッピウス(紀元前185年の執政官)、プブリウス(紀元前184年の執政官)、ガイウス(紀元前177年の執政官)も皆執政官となっている。

紀元前217年に、パトリキ(貴族)が就くクルリス造営官に選ばれたと考えられる。翌年、ローマはカンナエの戦いでハンニバルに敗れたが、プルケルは軍団司令官(トリブヌス・ミリトゥム)としてこの戦いに加わり、第三軍団を預かった。生き残った兵とともにカヌシウムに逃れ、プブリウス・コルネリウス・スキピオと共に状況を掌握したとも伝えられる。紀元前215年にはプラエトルに就任し、カンナエ後の軍団の残りをシキリアへ連れて行った。ハンノ・ボミルカルが増援を率いてロクリに上陸したとの情報を得て奇襲を試みたが、入れ違いに終わった。

シキリアで指揮を執るあいだ、シュラクサイでは代替わりしたヒエロニュモスがハンニバルに使者を送った。これを聞いたプルケルは、ヒエロニュモスに祖父ヒエロン2世の代からの同盟を更新するよう使者を送った。しかしヒエロニュモスは一笑に付し、「君たちはカンナエでどんな幸運に恵まれたのかね」と冗談交じりに尋ねた。使者たちは「あなたが真剣に使節を遇することを覚えたらまた来ましょう。くれぐれも軽々に同盟を破棄しないよう。これは警告ですぞ」と言い残して去ったという。ヒエロニュモスは結局カルタゴとの同盟を選び、プルケルはシュラクサイの国境地帯に侵入した。紀元前214年には、プロプラエトルとして、執政官マルクス・クラウディウス・マルケッルスが到着するまでシキリア東部で指揮を執った。合流後はレオンティウム(現在のレンティーニ)を攻撃した。シュラクサイ包囲戦ではマルケッルスのもとで八か月ほど働き、100隻の五段櫂船からなる艦隊とレオンティウムの基地を預かったとされる。任期の終わりに、執政官選挙に立候補するため一時ローマへ帰ることを許された。

紀元前212年に執政官に選ばれ、同僚のクィントゥス・フルウィウス・フラックスとともにベネヴェントゥムの戦いを戦った。二人はアポロ祭競技を創設し、ハンノ率いるカルタゴ軍と戦って、カプア包囲を始めた。しかしこの包囲のさなかにプルケルは傷を負った。元老院の指示で、一方の執政官が選挙管理のためローマへ戻ることになり、プルケルが帰国し、フラックスが包囲を続けた。翌年、二人はプロコンスルとしてインペリウムを延長され、カプアを落とすまで包囲を解かないよう命じられた。

ハンニバルがカプアの包囲を放棄してローマへ進軍しようとしたとき、元老院では、すべての司令官を呼び戻すべきだとする意見と、恐れて包囲を捨てるのは恥だとする意見が対立した。結局フラックスが選ばれてローマへ向かったが、これはプルケルが負傷していたからだという。ハンニバルはローマ攻略を諦めて引き返した。プルケルは包囲を続け、カプア包囲中にハンニバルと戦った。カプアはローマに降伏したが、プルケルはこの戦闘で受けた傷により、降伏の前後に没した。ローマに反旗を翻したカプアへの報復措置には、反対の立場だったといわれる。

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