HISTORICAL PERSON · 1908年没

グロバー・クリーブランド

米国第22代・第24代大統領で、連続しない2期を務めた初の人物。政治腐敗や縁故人事に反対した改革者として評価された。

生涯
1908年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニュージャージー州 / プリンストン)
出生地
アメリカ合衆国(コールドウェル)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニュージャージー州)

伝記

スティーブン・グロバー・クリーブランドは、1837年3月18日にニュージャージー州で、リチャード・フォーレイ・クリーブランドとアン・ニール夫妻の9人の子の1人として生まれた、第22代および第24代のアメリカ合衆国大統領である。歴代大統領のなかで初めて、連続しない2期を務めた人物となった。父はコネチカット州出身の長老派教会の牧師、母はボルチモア出身で、本屋の娘であった。数年後、家族とともにニューヨーク州北部に移り住み、そこで成長した。10代半ばで父を失い、ニューヨーク州バッファローに住む富裕で有力な伯父のもとへ移った。バッファロー市内の法律事務所で法律を学び、1859年にニューヨーク州の司法試験に合格した。その後エリー郡の地方検事補、保安官を務め、民主党に所属する弁護士として、職務へのひたむきな集中によって次第に名声を高めた。

1881年にバッファロー市長に選出されて市政改革に業績をあげ、1882年にはニューヨーク州知事に、共和党の革新派からの支持も受けて選出された。そして1884年、民主党全国大会で大統領候補に指名された。共和党のブレイン候補との選挙では、1863年に徴兵逃れをした、1874年に隠し子を生ませたといった疑惑が持ち出された。クリーブランドはいずれも事実と認めたことで、かえって有権者に誠実と受け止められた。ブレインにも財界との癒着の疑獄事件が発生し、共和党の一部がクリーブランド支持に回ったことで、僅差で勝利し、翌1885年3月に大統領に就任した。1886年6月2日、49歳のとき、後見人を務めていた友人の娘で28歳年下のフランシス・フォルソムと、ホワイトハウスで結婚した。ホワイトハウスで結婚式を挙げた唯一の大統領である。夫妻の間には二男三女が生まれた。

大統領第1期の彼は、細部まで自分で決定しなければ気がすまず、側近やスタッフを置かなかった。メディアとの接触も避け、孤高を貫いた。拒否権の行使は第1期だけで414回にのぼった。事業に有利な関税、退役軍人への年金、鉄道への土地の優遇などに反対し、官庁の市民サービスの改善や政府機関の改革に努めた。当時の最大の関心事は関税問題で、関税を下げる政策を掲げて当選しており、1887年末の議会教書で、一般関税の引き下げと、原料品への課税の撤廃を強調した。ところが1888年の選挙では、英国大使が「クリーブランドの当選を期待する」という旨の信書を出したことが公開され、対立候補ハリソンの批判に根拠を与えてしまい、落選した。

一度ニューヨーク市で弁護士をしたあと、銀本位制による通貨膨張に強く反対して、1892年の大統領選挙で再び当選した。しかし1893年から深刻な恐慌が始まり、関税引き下げの公約を果たせなかった。シカゴのプルマン寝台車会社のストライキが24州に及ぶ大規模なものになると、連邦正規軍を派遣して抑え込み、全国の労働者の反感を買い、中間選挙は民主党の大敗に終わった。外交では領土拡張には消極的で、ハワイ併合を認めず、キューバの反乱にも介入しなかった。一方、ベネズエラとイギリス領ギアナの国境紛争では、断固たる態度をとり、イギリスに調停を受け入れさせた。ホワイトハウスを去ると、ニュージャージー州プリンストンに引退し、1898年には米比戦争とフィリピン併合に反対して、アメリカ反帝国主義連盟を結成した。1908年6月24日に死去し、国葬で送られた。肖像は1928年から1946年まで1000ドル紙幣に採用された。

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