伝記
ヴカンは、ドゥクリャ王家の支配下から自立し、セルビア内陸部を治めた大公である。父はペトリスラヴで、祖父はミハイロ1世、祖母はそのギリシア人の後妻に当たる。生年は1050年ごろとされる。1083年または1084年、弟マルコとともにドゥクリャ王コンスタンティン・ボディンへの忠誠を誓い、その家臣としてセルビアの統治を任された。当初は兄弟による共同統治だったが、マルコのその後の活動は明らかでない。ラシュカをはじめとする内陸の諸地域には、それぞれの貴族と制度が存続しており、ドゥクリャ王国に恒久的に一体化していたわけではなかった。
1089年、ボディンの働きかけでバルの司教座が大司教座へ昇格すると、セルビアもその管轄に含められた。ただし内陸の教会の多くはコンスタンティノープルに従っており、ヴカンがローマへの帰属に転じたとは確認されていない。1089年から1091年にかけて、ビザンツ帝国がドゥクリャへ軍を進め、王族間でも内戦が起きて王権が弱まった。この時期、ボディンは再び帝国の捕虜になった可能性もある。ヴカンは1090年ごろからコソヴォ周辺の帝国領を襲撃し始めた。帝国は侵入してきたペチェネグ人への対応に追われ、直ちに反撃できなかった。1091年4月29日にペチェネグ軍を破った皇帝アレクシオス1世は、セルビアへの対処に移った。ヴカンはこの情勢の中で自立を進め、1091年または1092年に大公を称した。配下の地方領主は領内で広い自治を保つ一方、大公への忠誠と戦時の支援を求められた。領主たちの地位は世襲で、ドゥクリャが内陸部を併合する前から土地を保有していたとみられる。
1092年、ヴカンはドゥラッツォの軍司令官が率いる帝国軍を撃退した。皇帝がさらに大軍を率いて進んでくると、使節を送って和平を求めた。アドリアノープル近くまでクマン人が侵入する問題を抱えていた皇帝は、この申し出を受け入れた。ところが皇帝の撤退後、ヴカンは協定を破り、ヴァルダル川沿いへ進出した。ヴラニェ、スコピエ、テトヴォを奪い、多くの戦利品を得たのである。
1094年または1095年、アレクシオス1世が再び出陣すると、ヴカンは配下の領主たちと皇帝の陣営を訪れて和睦を申し出た。この際にはウロシュを人質として差し出した。セルビアと帝国の戦争に、内戦中のドゥクリャは関与せず、ヴカンは独自に軍事と外交を進めていた。その後もマケドニアへ南下したが、帝国側は十字軍への対応を抱え、十分に対処できなかった。
1101年にボディンが死ぬと、ドゥクリャ王位はその異母弟ドブロスラヴ2世に渡った。ヴカンはドゥラッツォから来たコチョパルと同盟し、1102年にドゥクリャへ侵攻した。モラチャでの戦いでドブロスラヴを倒してセルビアへ追放し、コチョパルを王位につけた。この協力関係は長続きせず、ヴカンはボディンの甥ウラディミルの擁立を企てた。新王の治世は短く、やがてコチョパルはザフムリェでの影響力を失い、同地の君主の娘と結婚した。1106年にはアレクシオス1世に服属した。ヴカンの死は1112年とされ、その名はヴカノヴィチ家の名称の由来となった。
同じ年に亡くなった人物
- リカルド・ディ・サレルノ (1114年)
- 年代記者ネストル (1114年没)
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