伝記
アデル・ド・フランドルは、フランドル伯ロベール1世とジェルトリュード・ド・サクスの娘として、1064年ごろに生まれた。エランダという名でも知られ、南イタリアではアラ、アラナとも呼ばれた。1080年、デンマーク王クヌーズ4世と結婚した。この縁組は、イングランドのウィリアム征服王に対抗するフランドルとデンマークの同盟の一環として取り決められたものである。結婚後はデンマーク王妃となり、クヌーズとの間に息子カールと双子の娘をもうけた。
カールは1084年、娘のカエキリアとインゲリは1085年または1086年ごろの生まれとされる。1086年、クヌーズは民衆の反乱のさなか、オーデンセの教会で殺害された。夫を失ったアデルは息子カールを連れて故郷のフランドルへ逃れた。双子の娘たちはデンマークに残り、夫の弟エーリクに引き取られて養育された。このエーリクは後のデンマーク王エーリク1世である。アデルは父ロベール1世と兄ロベール2世の治める宮廷に身を寄せ、そこで暮らすことになった。
1092年、アデルは再婚のためフランドルを離れ、イタリアへ向かった。相手はノルマン人のプッリャ公ルッジェーロ・ボルサで、ロベール・ギスカールの息子であった。アデルはこの結婚によってプッリャ公妃となった。二度目の夫との間にはルイ、グリエルモ、ギスカールの3人の男子をもうけたが、ルイは1094年に幼くして亡くなった。1096年または1097年ごろに生まれたグリエルモは成長したものの、ギスカールも1108年に少年のうちに死去し、成人したのはグリエルモだけであった。
1111年、ルッジェーロ・ボルサが死去すると、幼いグリエルモがプッリャ公位を継いだ。アデルは新しい公の母であり後見人として摂政を務め、息子に代わって統治を担った。摂政職はグリエルモが成人した1114年までとされるが、1115年まで務めたともいわれる。アデル自身は1115年4月に没した。最初の結婚で生まれたカールは、その死後の1119年にフランドル伯となり、シャルル善良伯の名で知られることになった。
同じ年に亡くなった人物
- レオーネ・オスティエンセ (1115年)
- オーラヴ・マグヌソン (1115年没)
- シャルトルのイヴォ (1115年没)
- 八の鹿 (1115年)
- ジェルベルジュ・ド・プロヴァンス (1115年没)
同じ地域に関係する人物
- ブラバンのシゲルス (1284年没)
- パオロ・ピレリ (2007年没)
- ロベルト・クレメンテ (1972年没)
- ライヌルフ (1045年没)
- テオダハド (536年没)