HISTORICAL PERSON · 1116年没

カールマーン (ハンガリー王)

ハンガリー王・クロアチア王で、聖職者の教育を受け文人王と呼ばれた。クロアチア王ペータル・スヴァツィチを破ってクロアチアを占領し、通過する十字軍に対処し、弟アールモシュとも争った。

生涯
1116年没
死亡地
ハンガリー(セーケシュフェヘールヴァール)
出生地
ハンガリー(セーケシュフェヘールヴァール)
出典
世界地図
ハンガリー(セーケシュフェヘールヴァール)

伝記

カールマーンは1070年ごろ、ハンガリー王ゲーザ一世の長男として生まれた。1077年に父が没すると、王家の年長者が継ぐ慣習によって叔父ラースロー一世が即位し、カールマーンと弟アールモシュは叔父の宮廷で育った。男子のない叔父はアールモシュを後継者に望み、兄には聖職者としての教育を受けさせた。エゲルかナジヴァーラドの司教に任じたともいわれる。しかし1095年、弟が正式に後継者とされると、カールマーンはポーランドへ逃れ、貴族の支援と軍を得て帰国した。同年七月に叔父が没した後、弟に王国の三分の一に当たる領地を与えて、自分の支配を認めさせた。1096年初めに戴冠した。

即位直後には、ハンガリーを通る十字軍への対応を迫られた。1096年五月、ゴーティエの軍は平和に通過したが、隠者ピエールの集団はゼムンの要塞を占領し、王の軍が迫ってようやく退いた。さらにドナウ川流域やニトラで破壊と略奪を行う集団が現れ、王は追放を命じた。次の軍勢には入国を認めなかったため、モションの要塞を包囲されたが、六週間の防戦の末に撃退した。九月二十日にはゴドフロワ・ド・ブイヨンと協定を結び、人質を取ったうえで自軍を警護に当たらせた。この軍勢は平和に国内を通過した。

カールマーンは、それまでの神聖ローマ帝国を頼る外交から、教皇庁との良好な関係を求める方針へ転じた。1097年春、シチリアのルッジェーロ一世の娘フェリチアと結婚し、その後クロアチアへ進軍した。王を称していたペータル・スヴァツィチをグヴォズド山の東麓で破り、王国を占領した。国内では弟が反乱を起こしたが、貴族の仲介で旧来の取り決めを守ることになった。1099年にはボヘミア方面で和平を図る一方、プシェムィシルを攻め、相手方の同盟者クマン人に敗れた。統治ではタルカルの会議で従来の法律を改め、ラースロー一世の厳罰を緩めた。法令にはユダヤ人やイスラム教徒に関する条項も含まれた。

1102年、クロアチア貴族の代表と、同国をハンガリーとは別の王国として統治し、その特権や慣習を尊重する取り決めを結んだとされる。ビオグラードでクロアチア王として戴冠し、1105年にはダルマチアの町や島々をヴェネツィアから奪った。同年、息子イシュトヴァーンを戴冠させると、弟は再び王位を求めて動いた。カールマーンは外交によって弟の支援者を切り崩した。1108年には弟の聖地巡礼中にその公国を占領した。弟の求めで皇帝ハインリヒ五世がポジョニを包囲したが、ポーランドのボレスワフ三世の支援を得て和平に持ち込んだ。弟は帰国したものの、公国は返されなかった。

1112年、キエフ大公ウラジーミル二世の娘エウフィミヤを二人目の妃に迎えたが、数か月後、不貞を理由に離縁して故郷へ送り返した。彼女が産んだボリスも実子とは認めなかった。1115年には病が重くなるなか、自分の子孫への継承を確かにするため、アールモシュと幼い息子ベーラの目を潰させた。その後、弟への行為を悔いる巡礼に赴いた。同年八月からヴェネツィアがダルマチアへ反攻したが、対処できなかった。1116年2月3日に没し、セーケシュフェヘールヴァールの聖イシュトヴァーンの墓の隣に葬られた。

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