伝記
アラン4世は、1060年頃、オエル2世とアヴォワーズ・ド・ブルターニュの子としてシャトーラン城に生まれた。1072年に母が死ぬと公位を受け継いだが、幼少のため父が統治を担い、1084年にその跡を継いで自らブルターニュを治めるようになった。同年、父と祖父によるカンペルレのサント・クロワ修道院への寄進をすべて確認し、ランデヴェネック修道院にはシャトーランの水車、水門、漁場を与えた。一方、レンヌではジョフロワ・グレノナが伯位を保持しており、公の権威を回復する必要があった。アランは軍の先頭に立ってレンヌを攻略し、グレノナをカンペールへ送った。相手が同年中に死ぬと、レンヌ伯の称号を取り戻した。弟マティアスにはナント伯領を任せた。
1086年または1087年、イングランド王ウィリアム征服王の娘コンスタンスと結婚した。しかし子は生まれず、コンスタンスは1090年に急死した。1093年には、アンジュー伯フルク4世の娘エルマンガルドと再婚した。新しい妃はアキテーヌ公ギヨーム9世と離婚した女性である。アランは自分の故郷でもあるブルトン語地域に住むことを好み、オーレーやカルノエトの城にしばしば滞在した。カルノエトの近くのサント・クロワ修道院では、叔父ブノワが院長を務めていた。アラン自身もブルトン語を用い、この言葉を話した最後のブルターニュ公とされる。
1096年夏、公国が平穏であったことから、教皇ウルバヌス2世の呼びかけに応じ、ブルターニュの領主たちと第1回十字軍へ出発した。ブルトン人の部隊はノルマンディー公ロベールらの軍に組み込まれた。アランの遠征中、公国は妃エルマンガルドの強い統治のもとに置かれた。五年の不在を経て1101年に帰国すると、信仰深い妃の影響も受け、宗教の問題にいっそう力を注いだ。ロワール川流域の修道院を援助し、マルムーティエ、サン・セルジュ、サン・ニコラなどとの関係を深めた。1103年に弟マティアスが子を残さず死去すると、ナント伯領は再び公の直接の所領となった。
1106年にはカンデ包囲に参加し、同年9月には、ヘンリー1世とノルマンディー公ロベールとの争いでイングランド王側に立ち、タンシュブレーの戦いに加わった。ブルターニュの貴族がイングランドに定着する動きも続き、ヘンリー1世はオリヴィエ・ド・ディナンやギヨーム・ドービニー、アラン・フィツフラードに土地を与えた。公国内ではレンヌ司教マルボドらによる聖職者改革を支え、1107年にドルの司教に選ばれたボードリ・ド・ブルグイユも支援した。1110年頃には娘アニェスが、フランドル伯家のボードゥアン7世と結婚した。アランとエルマンガルドには、ほかに息子コナンとジョフロワがいた。
1113年3月、フランス王ルイ6世とヘンリー1世の会談で、アランはイングランド王の直接の家臣と位置づけられたとされる。息子コナンとヘンリー1世の庶子マティルダとの婚約も結ばれた。病を得ると、政治をコナンに託した。コナンは1115年にブルターニュ公として最初の証書を発した。アランはルドンのサン・ソヴール修道院に隠棲し、1116年には息子ジョフロワがエルサレムで死去した。アラン自身は1119年10月13日に同修道院で死に、ドル大司教やレンヌ司教、ブルターニュの諸侯が立ち会う中で葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- ハインリヒ1世 (リンブルフ伯) (1119年没)
- ゲラシウス2世 (ローマ教皇) (1119年没)
- ルッジェーロ・ディ・サレルノ (1119年)
- ボードゥアン7世 (フランドル伯) (1119年没)
同じ地域に関係する人物
- ルイ・バシュリエ (1946年没)
- ピエール・ヴィルヌーヴ (1806年没)
- マルク=ジョゼフ・マリオン・デュフレーヌ (1772年没)
- アヴォワーズ・ド・ブルターニュ (1072年没)
- ジュール・ペロー (1892年没)