伝記
ジェロニモは、1829年6月16日に生まれ、1909年2月17日に没した、ネイティブ・アメリカンのアパッチ族のシャーマンで、白人への抵抗戦であるアパッチ戦争に身を投じた戦士である。本名はゴヤスレイといい、「あくびをする人」、つまり眠たがりを意味する。ジェロニモとは、スペイン語を母語とするメキシコ人がつけたあだ名「ヘロニモ」の英語読みで、英語のジェロームに相当する。アパッチ族などには、他人が実名を呼ぶことを避ける習慣があり、家族以外に決して教えない神聖な名前を持っていて、これは部族外には伝わっていない。また、生涯に何度も名を変える風習があるので、ジェロニモも彼の本名の一つといえる。
ネドニ・アパッチ族のベドンコヘ・バンドの酋長を祖父に持つ。祖父は、ネドニ族から離れてミンブレス・アパッチ族の女と結婚したため、彼はネドニ族の酋長を継ぐ権利を失った。マンガス・コロラダス酋長が率いるミンブレス・アパッチ族のもとで、山岳戦士としての訓練を積んだ。不眠に耐える訓練や、水を口に含んだまま一度も吐き出さずに往復6キロを超える山岳地帯を走る訓練、弓矢や投石機の扱いの習得などを経て、部族の生業である略奪を目的に、メキシコへ遠征した。アパッチ族にとって、策略は勇気に勝るとされ、夜陰に乗じて牧場から牛や馬をさらう手法は、部族の美徳とされていた。1848年、17歳でアロペと結婚し、のちに彼女との間に3人(4人ともされる)の子をもうけた。
1858年、チワワ州が略奪部族のミンブレス・アパッチ族に「和平協定」を申し出た。年に4回、軍の駐屯地で毛布や布地、トウモロコシの粉、メスカルを支給するという内容だった。メキシコは1837年から、アパッチ族の頭の皮一枚に、男で100ペソ、女で50ペソ、子供で25ペソの賞金を懸けていたため、申し出は疑われたが、マンガス・コロラダスたちは合議の末、一隊の派遣を決め、運搬の手伝いに女子供も同行した。ジェロニモも妻のアロペ、老母、幼い子供たちの家族総出で加わった。ところがソノラの軍政長官カラスコ将軍は、これを好機とみてアパッチの皆殺しを図っていた。北部のヤーノス村に着いた一行は、郊外に用心深く野営したが、町では大歓待を受けた。油断した彼らをカラスコの軍が襲ったのは三日後で、野営を完全に包囲して皆殺しにした。
こうして家族をすべて殺されたジェロニモは、遺品をすべて野辺送りにして焼いた。温厚だった性格は暗く怒りっぽく変わり、メキシコ人への終生の復讐を誓う戦士に変貌した。復讐戦が決まると、各支族から戦士を募る役目を引き受け、チリカワ・アパッチ族の酋長コチーズを訪ねて協力を求め、次にかつての母族ネドニ族の酋長を訪ねて賛同を得た。アパッチ連合軍は、ソノラ州の富裕な町アリズペを標的とし、襲撃はヤーノスの虐殺の翌年に行われた。戦場でナイフを片手に銃弾の雨をものともせず暴れ回る姿に、畏敬を覚えたメキシコ人が守護聖人の名「ジェロニモ」と叫び、人々がそれに呼応して、彼の名はジェロニモとなったという。この戦の後、チリカワの女を妻に迎え、コチーズの計らいでチリカワの戦士となった。妻は生涯に数人に及び、それぞれに子をもうけている。
同じ年に亡くなった人物
- オリバー・O・ハワード (1909年没)
- アイネイアス・マッカイ (1909年没)
- ジョアン・バルボーザ・ロドリゲス (1909年没)
- オットー・シンディング (1909年没)
- Miguel Antonio Caro Tobar (1909年没)
同じ地域に関係する人物
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- R・A・ラファティ (2002年没)
- ディック・ガーメイカー (2020年没)
- Jesse Renick (1999年没)
- ナニー・ドス (1965年没)