HISTORICAL PERSON · 1909年没

ヘルマン・ミンコフスキー

ロシア生まれのユダヤ系ドイツ人数学者。18歳でフランス科学アカデミーの数学大賞を受け、数の幾何学を築いた。1907年ごろ、時空を四次元で表すミンコフスキー空間を考案し、ゲッティンゲン大学教授を務めた。

生涯
1909年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ニーダーザクセン州 / ゲッティンゲン)
出生地
リトアニア共和国(アレクソタス)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ニーダーザクセン州)

伝記

ヘルマン・ミンコフスキーは、1864年6月22日に、ロシア帝国領のアレクソタス(現在はリトアニアのカウナス近郊)で生まれたユダヤ系ドイツ人の数学者である。数論や幾何学で業績を残し、彼が提案したミンコフスキー空間は、アインシュタインの特殊相対性理論における時空を数学的に表現したものとして知られる。父レヴィンは商人で、カウナスのシナゴーグの建設に出資し、母はラヘルといい、ともにユダヤ人であった。病理学者のオスカルは兄にあたる。国籍については、ドイツ人、ポーランド人、リトアニア系ドイツ人、ロシア人などと、さまざまにいわれる。ロシア帝国でのユダヤ人への迫害を避けるため、8歳の1872年に家族でドイツ領のケーニヒスベルク(現在はロシア領カリーニングラード)に移り、父は、ぼろ布の輸出や、ぜんまい仕掛けのブリキ玩具の製造を営んだ。

ケーニヒスベルク大学に進み、ダフィット・ヒルベルトとともにアドルフ・フルヴィッツの下で学び、この二人とは終生の友人となった。若いころから数学の才能を示し、18歳のとき、整数を5個の平方数の和に分解する問題の研究で、ヘンリー・ジョン・スミスとともにフランス科学アカデミーから数学大賞を受けた。これが彼が学界に認められるきっかけとなった。この問題は、ガウスが2、3変数の二次形式の理論を大きく発展させて以来、多くの数学者が研究していたものである。ミンコフスキーはその後も二次形式の研究を続け、n変数の二次形式を、格子と凸体という幾何学的概念を導入して調べ、数論のいくつもの定理を幾何学的に証明し、新しい定理も得た。1896年には、幾何学的な考察から数論の定理を示す方法を編み出し、「数の幾何学」と名づけた。これは後に独立した大きな分野となり、関数解析や線形位相空間論に応用され、彼の導入した格子は、結晶学や金属学にも応用されている。

1885年にケーニヒスベルク大学から学位を得て、卒業後すぐにボン大学の客員教授となり、1894年にはヒルベルトの後を受けて、母校の助教授に就いた。1896年にチューリッヒのスイス連邦工科大学の準教授となり、ここでの教え子に、若き日のアインシュタインがいた。1897年にアウグステ・アドラーと結婚し、二人の娘をもうけた。1902年、ヒルベルトの努力によって、ゲッティンゲン大学にミンコフスキーのための数学の講座が作られ、その教授に就任して、死去するまで務めた。

1907年までに、時間と空間を統一的に扱うミンコフスキー時空の概念を作った。アインシュタインの特殊相対性理論の時空が、時間の一次元と空間の三次元を組み合わせた四次元の空間として記述できることを見いだしたもので、光円錐を考えたのも彼である。この空間は、通常の三次元にもう一軸を加えただけのユークリッド空間とは全く異なる。同年に『ディオファントス近似論』を、翌1908年に『運動する物体の電磁過程論の基礎』と題する論文を発表した。1909年1月12日、ゲッティンゲンで虫垂炎のために急死し、同年に『空間と時間』が発表された。弔辞はマックス・ボルンが読み、ヒルベルトは追悼文で、深い友情を示した。小惑星と月のクレーターに、その名が付けられている。

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