HISTORICAL PERSON · 1909年没

レオポルド2世 (ベルギー王)

第2代ベルギー国王。1865年に即位し、コンゴ国際協会を創設してコンゴ支配を進め、1884年のベルリン会議で私有地と認められた。先住民への残虐行為を批判され、1908年にコンゴをベルギーへ委譲した。

生涯
1909年没
死亡地
ベルギー王国(ブリュッセル / ラーケン)
出生地
ベルギー王国(ブリュッセル市)
出典
世界地図
ベルギー王国(ブリュッセル)

伝記

レオポルド2世は、1835年4月9日にブリュッセルで、初代ベルギー国王レオポルド1世と、フランス王ルイ=フィリップの娘ルイーズ=マリーの次男として生まれた第2代ベルギー国王(在位1865年~1909年)である。兄ルイ=フィリップが前年に夭折していたため、王太子となった。妹シャルロットはメキシコ皇帝マクシミリアーノの皇后となった。1853年にオーストリア大公ヨーゼフ・アントンの娘マリー=アンリエットと結婚した。3人の娘と1人の息子をもうけたが、息子のレオポルドは9歳で亡くなり、女子の王位継承を認めない当時のベルギーでは、直系の継承者を失った。1855年に上院議員となって政界入りした。

1830年にオランダから独立したばかりのベルギーは、父王の強い指導のもと、1836年に他国に先んじて鉄道を完成させ、飛躍的に発展していた。それでも小国にすぎず、王太子はそれに甘んじるつもりはなかった。オランダがジャワから莫大な利益を得るのを見て、植民地が不可欠だと確信したという。各地を旅して植民地を探し、帰国後は上院で獲得を熱心に訴えたが、関心を持つ議員はほとんどいなかった。グアテマラの植民地化の失敗以来、国民も議会も帝国主義政策を支持していなかったのである。1860年には「外に向かって膨張すべき時期が来ている」と語り、1865年には清や日本への遠征に言及して、極東にも関心を示した。同年12月10日に父が崩御し、17日にレオポルド2世として即位した。

在位中、国内では自由党と、1884年の選挙以降はカトリック党が政権を担った。経済は成長を続け、19世紀後半のベルギーは農業の収益率でヨーロッパ随一、鉄道の密度で世界一を誇った。他方、大規模な工場制への転換で労働者の環境は悪化し、1885年には社会主義などの派閥が統一されて労働党が結成された。1886年のストライキは暴動に発展して軍が投入され、その後に労働者保護政策が打ち出された。1893年には男子普通選挙法が制定され、1900年に老齢年金が導入された。

即位するとフィリピンやモザンビーク、清、モロッコ、エチオピアなどの植民地化を狙ったが、列強に阻まれて失敗が続いた。そこで中部アフリカのコンゴに機会を見いだした。1876年にブリュッセルでアフリカ探検を話し合う会議を開き、自らが執行委員会委員長に就いて、1882年にはコンゴ国際協会に改組した。実質は彼の私的機関だった。探検家スタンリーを支援してコンゴ川流域を探検させ、先住民の部族長と貿易協定を結ばせた。1884年のベルリン会議で、コンゴがレオポルド2世の個人的私有地であることを認められ、「コンゴ自由国」ができた。当初は鉄道を敷設し、奴隷商人の取り締まりを強めるなどコンゴの近代化に努め、私財のほとんどをつぎ込んだ。

しかしまもなく利益の回収を優先し、1891年と1892年の勅令で象牙と天然ゴムを独占した。天然ゴムの産出量は1893年の250トン足らずから、1901年には6000トンに達したが、先住民の過酷な労働に支えられていた。ノルマを果たせないと手足切断などの罰が加えられ、人口は大きく減ったといわれる。イギリスや宣教師から残虐行為が報告され、国際的な批判が強まり、1903年にはイギリス下院が批判の決議を出した。批判に耐えかねたベルギー政府は、1908年にコンゴを国王の私領から国家の植民地へ転換した。レオポルド2世は1909年12月17日に崩御し、嫡出の男子がなく、甥のアルベール1世が王位を継いだ。

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