HISTORICAL PERSON · 1121年没

フロリス2世 (ホラント伯)

ホラント伯。ユトレヒト司教との紛争の末に司教を封臣として支配下に置き、1101年にラインラントを征服して伯の称号を与えられた。肥満伯とも呼ばれ、跡は息子ディルク6世が継いだ。

生涯
1121年没
死亡地
—
出生地
オランダ(南ホラント州 / フラールディング)
出典
世界地図
オランダ(南ホラント州)

伝記

フロリス2世は、1085年ごろフラールディンゲンに生まれた、ディルク五世とオテリンディスの息子である。肥満伯とも呼ばれた。1091年に父の地位を継いだが、当初の領地は正式にはフリースラントと呼ばれ、西フリースラントの伯として統治した。父から引き継いだユトレヒト司教との対立は、教皇と神聖ローマ皇帝の権力争いである叙任権闘争を背景としていた。フロリスはこの争いを終結させた。1101年、ライン川沿いのライデン周辺を獲得し、ユトレヒト司教からホラント伯の称号を与えられた。同地の在来の王朝で、ホラント伯と称された最初の人物となった。

外交では皇帝ハインリヒ五世と協定を結んだ。皇帝はゼーラントの島々をフランドル伯から奪おうとしており、フロリスが輸送や補給などの支援を行う代わりに、獲得した島々を渡す約束であった。ただし戦争が実際に行われたのか、協定の条件が果たされたのかは明らかでない。島々は、フランドル伯から封土として与えられたとも考えられている。

1108年ごろ、ロレーヌ公ティエリー二世の娘ゲルトルートと結婚した。結婚を1100年や1113年とする説もある。妻は教皇庁への忠誠を示すため、聖ペトロの娘として崇敬される聖女にちなみ、ペトロニラと改名した。1112年には、フリースラントの貴族ガラマとの間に事件が起きたと伝えられる。クレイルの森で狩りをしていたフロリスが、ガラマの犬三頭を奪ったことが発端である。返還されなければ復讐すると誓ったガラマは、後日また狩りで会った伯に補償を求めた。フロリスがその態度を無礼だと責めると、ガラマは剣を抜いて伯の腕を傷つけた。ガラマは伯の従者たちに討たれたという。

フロリスには金銭への執着を非難する声もあった。サン・トロン修道院長ルドルフは、修道院から奪われた教会の返還を助けるよう、教会の保護者である伯に頼んだが、多額の金を渡しても約束は果たされなかったと訴えている。フロリスは三月二日に没し、没年は1121年とも1122年ともいわれる。ペトロニラとの間には三男一女があり、長男ディルクがディルク六世として伯位を継いだ。幼少のため母が摂政を務めたが、次男の黒伯フロリスは後に兄へ反旗を翻した。ほかの子では、シモンがユトレヒトの律修司祭となり、娘ヘドウィグは修道女となった。

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