HISTORICAL PERSON · 1910年没

マーク・トウェイン

アメリカの作家。『トム・ソーヤーの冒険』の著者として知られ、ユーモアと社会風刺に富んだ作品で人気を集めた。

生涯
1910年没
死亡地
アメリカ合衆国(コネチカット州 / レディング)
出生地
アメリカ合衆国(フロリダ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(コネチカット州)

伝記

マーク・トウェインは、本名をサミュエル・ラングホーン・クレメンズといい、1835年11月30日にミズーリ州で生まれ、1910年4月21日に没した、アメリカ合衆国の著作家、小説家である。『トム・ソーヤーの冒険』の著者として知られ、世界中で講演活動も行って、当時最も人気のある著名人のひとりだった。ペンネームは、川を行く蒸気船の測深手が水先案内人に送る合図から採ったもので、安全に通航できる限界の浅さである二尋を意味する。1863年2月、ネバダ州バージニア市の新聞で使い始めた。判事の父ジョン・クレメンズと母ジェーンの、七人きょうだいの六番目の子として生まれ、この年にハレー彗星が観測されたため、後年「自分はハレー彗星とともに地球にやってきたので、彗星とともに去っていくだろう」と周囲に語っていた。一家は旧家だったが、破産して経済的に恵まれなかった。

四歳のとき、一家は出生地から約五十キロ離れたミシシッピ川沿いの町、ミズーリ州ハンニバルに転居した。この町とその住人が、のちに『トム・ソーヤーの冒険』などの登場人物と場所のモデルとなった。クレメンズ家は奴隷を所有しており、女中のジェニーはトウェインにとって第二の母親であり、奴隷の子供たちは遊び友達だった。ジムの描写は、こうした人間関係に由来している。1847年に父が多くの負債を残して死去すると、長男オーリオンが始めた新聞の出版を二年間手伝い、論争の的になった記事のいくつかは彼が書いたものである。その後十七歳で印刷工としてセントルイスへ転居した。1857年に水先案内人見習いとなり、1858年に資格を取得した。同年6月、乗る予定だった蒸気船がボイラー爆発を起こしたが、別の船の仕事で免れた。しかし事務員として乗っていた弟ヘンリーが巻き込まれて亡くなった。

南北戦争が始まると、舟運の激減で水先案内人を失業し、南軍に志願して少尉として従軍したが、自伝によれば疲労による戦闘不能で除隊した。1861年、兄がネバダ準州の政務長官に任命されたため、同行してネバダへ移り、さらにサンフランシスコで新聞記者として働いた。特派員としてハワイにも滞在し、新聞記事を集めた『ハワイ通信』(1866年)を出した。1869年には、新聞に長期連載したヨーロッパ旅行の体験記が『無邪気な外遊記』として出版されて評判となった。1870年にオリヴィア・L・クレメンズと結婚し、一男三女をもうけたが、長男ラングドンは一歳十か月で、長女スージーは二十四歳で、三女ジーンは二十九歳で亡くなった。

コネチカット州ハートフォードに住んで多くの作品を発表した。1873年の『金ぴか時代』は出世作となり、名を不動にしたのは1876年の『トム・ソーヤーの冒険』である。大ベストセラー作家となって大きな富を得たが、浪費や新発明への投資、株の投機などで次第に富は減った。それでも1885年の『ハックルベリー・フィンの冒険』など、ベストセラーを出し続けた。1894年には投資の失敗で破産し、スタンダード・オイル副社長ヘンリー・H・ロジャーズの助力で資産を再編成した。借金返済のため、1895年に世界中で講演活動を行い、1897年の『赤道に沿って』の印税も返済に充てて、借金を完済した。1897年に新聞に「トウェインが死んだ」という誤報が出ると、「私が死んだという報道は誇張である」と発表した。1898年にはアメリカ反帝国主義連盟のメンバーとなり、合衆国のフィリピン併合に反対した。1910年、ハレー彗星が75年ぶりに地球へ近づいた年に死去し、本人が予見した通りにこの世を去った。

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