伝記
レフ・ニコラエヴィチ・トルストイは、1828年9月9日(ユリウス暦8月28日)に生まれ、1910年11月20日(ユリウス暦11月7日)に没した帝政ロシアの小説家・思想家である。ドストエフスキー、ツルゲーネフと並ぶ19世紀ロシア文学を代表する文豪で、『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』などの作品を残し、非暴力主義者としても知られる。トゥーラ郊外のヤースナヤ・ポリャーナで、伯爵家の四男として生まれた。祖先は父方も母方も歴代の皇帝に仕えた由緒ある貴族だった。富裕な家庭ではあったが、2歳で母を亡くし、1837年に父の仕事のため一家でモスクワへ移ると、同年6月に父を失った。引き取られた祖母も翌年に世を去り、後見人となった父の妹もしばらくして他界して、最終的にカザンの叔母に引き取られた。1844年にカザン大学の東洋学科に入ったが、社交や遊興に耽って成績は振るわず、法学部に転部してもふるわず、1847年に中退した。このころルソーを耽読し、その影響は生涯続いた。
1847年にヤースナヤ・ポリャーナを相続し、農地経営に乗り出して農民の生活改善を目ざしたが、すぐに挫折した。そのなかで、1850年に初めて小説を書き始めている。1851年にコーカサスの砲兵旅団に志願して編入され、その体験は後年の作品に反映された。1852年、24歳のとき、コーカサスで書いた作品が、ネクラーソフの編集する雑誌『同時代人』に発表され、新進作家として注目を集めた。1853年からのクリミア戦争では将校として従軍し、セヴァストポリの激戦の中に身を置いた。この体験は『セヴァストポリ物語』などに結実し、のちの非暴力主義の素地ともなった。退役後はペテルブルクの文壇に温かく迎えられ、教育問題に関心を持って、1857年にヨーロッパを視察した。1859年には領地に学校を設け、強制を排して自主性を重んじる方針で、農民の子弟を教えた。1862年に34歳で18歳の女性と結婚し、以後はヤースナヤ・ポリャーナに居を定め、夫婦の間には多くの子が生まれた。
この幸福な結婚生活の中で、傑作が書かれた。『戦争と平和』(1864年から1869年)は、ナポレオン軍の侵入に抗して戦うロシアの人々を描いた歴史小説で、500人を超える登場人物が写実主義の手法で描かれ、ロシアの貴族社会のパノラマを描き出した。『アンナ・カレーニナ』(1873年から1877年)は、貴族社会を舞台に、人妻アンナの不倫を中心に描く長編で、より調和に富み、構成も緊密である。
しかし1870年代から精神的な危機が進み、1878年ごろから人生の無意味さに苦しんで、自殺を考えるまでになった。精神的な彷徨の末、山上の垂訓を中心に、自己完成を目ざす原始キリスト教的な独自の教義を作り、作家の立場を捨てて思想家・説教者として活動するようになった。政府を論文で非難し、国家と私有財産、搾取を否定したが、反政府運動であっても暴力は認めなかった。ロシア正教会も批判の対象となり、1899年の『復活』は、迫害されたドゥホボル教徒の移住を助けるために書かれ、1901年に破門された。かえってトルストイを支持する声が強まった。1904年の日露戦争などには非暴力の立場から批判し、1909年からはガンディーと文通した。1910年、ついに家出を決行したが、悪寒を覚えて小駅アスターポヴォで下車し、11月20日に駅長官舎で肺炎により亡くなった。82歳で、葬儀には1万人を超える参列者があり、遺体はヤースナヤ・ポリャーナに埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- ジョージ・ヘンリー・ウィリアムズ (1910年没)
- ヒューゴ・エルトマン (1910年没)
- スタニズラオ・カニッツァーロ (1910年没)
- ジュリア・ウォード・ハウ (1910年没)
- ヴェラ・コミサルジェフスカヤ (1910年没)
同じ地域に関係する人物
- ザドンスクのティーホン (1783年没)
- アレクセイ・ホミャコーフ (1860年没)