伝記
フローレンス・ナイチンゲールは、1820年5月12日にトスカーナ大公国の首都フィレンツェで生まれ、1910年8月13日にロンドンで没したイギリスの看護婦、統計学者、看護教育学者である。裕福な地主階級の両親が2年間の新婚旅行をしていた最中に生まれたため、フィレンツェの英語名にちなんでフローレンスと名づけられた。クリミア戦争での負傷兵への献身と、統計に基づく医療衛生の改革で知られ、「ランプの貴婦人」「クリミアの天使」の別称がある。国際看護師の日(5月12日)は、彼女の誕生日である。幼少期には、フランス語、ギリシャ語、イタリア語、ラテン語などの外国語、プラトンの哲学、数学、天文学、経済学、歴史、美術、音楽など、贅を尽くした教育を受けた。しかし慈善訪問のなかで貧しい農民の悲惨な暮らしに触れるうちに、人々に奉仕する仕事に就きたいと考えるようになった。
1847年、旅行家のブレスブリッジ夫妻に連れられてローマに旅し、ローマの保養所の所長をしていたシドニー・ハーバートと知り合った。帰国後は、ハーバート夫人のリズとも親しくなった。精神を病んだ姉の看護をするという口実で、1851年にドイツの病院付属の学園施設に滞在し、看護婦への教育が行われているのを見た。その後、看護婦を志し、リズに紹介されたロンドンの病院に就職した。無給であったが、年500ポンドの生活費は、数少ない理解者の父が出した。就職に反対した母や姉とは険悪になったが、後に理解を示し、活躍を応援する側に回った。のちに婦人病院の院長となり、各地の病院の状況を調べて、専門教育を受けた看護婦の必要を訴えた。当時の看護婦は、病人の世話をする単なる召使いと見られていた。
1853年にクリミア戦争が始まると、ロンドンタイムズの特派員が、前線の負傷兵の扱いが後方でいかに悲惨かを伝え、世論が沸騰した。ナイチンゲールは自ら従軍する決意を固めた。戦時大臣のシドニー・ハーバートが事態を重くみて従軍を依頼し、10月21日、シスター24名と職業看護婦14名の計38名を率いて、後方基地スクタリの病院へ向かい、11月に到着した。兵舎病院は極めて不衛生で、縦割り行政の弊害から必要な物資が供給されておらず、軍医長官らは看護婦団の従軍を拒んだ。ナイチンゲールらは、病院の便所掃除がどの部署の管轄でもないことに目をつけ、掃除から始めて病院内に入り込んでいった。女王はハーバート大臣に、ナイチンゲールの報告を直接自分に届けるよう命じ、一行を励ました。着任後に死亡率は一時42%に上がったが、衛生委員会の査察を経て衛生状態が改善されると、4月に14.5%、5月には5%まで下がったことが後に判明した。死者の大多数は傷ではなく、院内の感染症によるものだったと推測された。
1856年に戦争が終わると、国民的英雄として祭り上げられることを嫌い、母方の姓スミスを使って人知れず帰国した。統計資料を作成して委員会に提出し、死亡原因ごとの死者数を一目で把握できる「極面グラフ」を使ったことで知られる。陸軍全体の組織改革につながり、1859年にはイギリス王立統計学会の初の女性会員に選ばれた。戦時中に作られたナイチンゲール基金が4万5千ポンドに達すると、ロンドンの聖トーマス病院に、世界初の宗教系でない看護学校を設立した。37歳の1857年ごろに虚脱状態に悩まされ、死去するまでの約50年間はほとんどベッドの上で過ごし、原稿や手紙を書くことが活動の柱となった。1910年8月13日、メイフェアの自宅で静かに息を引き取った。90歳。国葬を打診されたが、遺族が辞退した。
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