伝記
ラーマ5世は、1853年9月20日に生まれた、チャクリー王朝の第5代のシャム国王である。幼名をチュラーロンコーンといい、チュラチョームクラオやピヤマハーラートの名でも呼ばれる。父はラーマ4世のモンクット王で、母はテープシリンドラー王妃であった。父には39人の妃や側室がおり、82人の子がいたが、彼は第一子でも長男でもなく、テープシリンドラーが産んだ最初の男子であることから、王位継承者に指名された。当時のシャムは、ビルマとマレーに迫るイギリスと、インドシナに進出するフランスの野心に直面しており、父は改革の多くを後継者が実行することを自覚して、彼を革新的な国王にするため準備を始めた。7歳から王室の教師のもとで学び、仏教やパーリ語、歴史書、王室の作法、シャム文字、軍の指揮、剣術などを習った。1866年には王室の伝統に従って、6か月間、ボウォーンニウェート寺で見習い僧となった。西洋人の教師からは科学や英語、フランス語を学んだ。そのなかには、1862年から1867年にかけて彼と兄弟たちを教えたアンナ・レオノーウェンズもいた。
1868年、父に従って、8月18日の日食を観測するため、ワーコーに向かい、父の予測は正しいことが確かめられた。しかし父子ともにマラリアに罹り、父は10月1日にバンコクで亡くなった。後継者を指名していなかったため、評議会が彼を満場一致で選んだ。15歳だったため、チュアン・ブンナークが20歳になるまで摂政を務めた。若き王は熱心な改革者で、1871年にシンガポールとジャワを、1872年に英領インドを訪れ、植民地の統治を学んだ。この旅は、のちの近代化の構想の源となった。1873年11月16日に、正式にラーマ5世として戴冠した。
即位後まもなく欧米を視察してタイの立ち後れを実感し、チャクリー改革と呼ばれる数々の改革を行った。公然と行われていた奴隷売買を長年かけて廃止し、このためダムロン王子から歓喜大王と献名された。各地の王を廃止して中央集権国家をつくり、官僚制を導入して行政を効率化した。議会制度の前身となる国政協議会と枢密院を設置し、学校教育を開始した。バンコクからナコーンラーチャシーマーまで列車を通し、電話業務も始めた。ビルマとマレーシアがイギリスに、ベトナムがフランスに占領されるなか、イギリスにはマレー半島の一部を、フランスにはラオスとカンボジアを割譲することで、独立を保った。背景には、近代化されたシャムをあからさまに占領するのは問題があったこと、英仏が緩衝地帯としてのシャムの独立を望ましいと考えたことがあった。
1898年に、インド北部で釈迦の一族の遺骨を納めた壺が発見されると、イギリス政府から仏教国のシャムに譲渡され、その一部をビルマ、セイロン、日本などへ分与した。日本へ譲られた遺骨を納めるために創建されたのが、覚王山日暹寺、現在の覚王山日泰寺である。妻は異母の姉妹を正妻と副妻に持ち、側室を入れて160人以上、子は77人と歴代最高で、ドゥシットに宮殿を造った。1910年10月23日に没した。タイ三大王のうちの一人で、今も国民に人気が高く、1999年には米国の『タイム』誌で「今世紀もっとも影響力のあったアジアの20人」に、タイ人から唯一選ばれた。
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