伝記
レオン・ワルラスは、1834年12月16日にフランスのエヴルーで生まれ、1910年1月5日に没した経済学者である。スイスのローザンヌ・アカデミーで経済学の教鞭を執った。経済学的分析に数学的手法を積極的に活用し、一般均衡理論を最初に定式化して、ヨーゼフ・シュンペーターによって「すべての経済学者の中で最も偉大」と評された。生涯、労働者の貧困解決を課題とする社会主義者でもあった。父オーギュスト・ワルラスは、もとは法学者で、中学校の校長、のち視学官を務めた人物であり、当時の価値論に不満を抱いて経済学を研究した。職業的な経済学者ではなかったが、土地国有化論と価値論について、息子に着想を与えた。社会が進歩するにつれて地価は上がり、その成果は地主に帰するため、社会の経費は地代収入で賄うべきだと、父子は論じた。
エコール・ポリテクニークを受験したが、最初は受験要件を満たせず、翌年は数学で失敗して入学できなかった。やむなくパリ国立高等鉱業学校に入ったが、実学志向の強さを嫌い、文学に傾倒し、サン=シモン主義者と交わって二年留年し、中退した。サン=シモン主義者との交流や父の影響で、土地国有化の思想を身につけた。その後、父の説得を受け入れて、経済学の研究を始めた。経済学研究に転じる前には小説も書いていた。経済雑誌の記者や鉄道会社の事務員など職を転々とし、レオン・セイとともに協同組合割引銀行を設立して理事となったが、事業は、ワルラスの反対にもかかわらず、消費協同組合に過剰融資を行い、行き詰まって倒産した。事後処理のため管財人の銀行に雇われ、その間にローザンヌで開かれた租税会議の論文コンクールに応募し、4位に入った。この時の1位はプルードンであった。
36歳のとき、租税会議で彼に注目していたルショネーに誘われ、スイスのヴォー州に完成したローザンヌ・アカデミーの経済学教授の採用試験に応募した。社会主義的な主張への反対もあったが、ダメット教授とルショネーの賛成を得て、4対3で辛うじて合格し、一年の仮採用ののち初代教授となった。彼の理論は、記述言語としての数学の利用が理解されず、難解と思われて、その重要性は長く認められなかった。それでも徐々に広がり、死の直前の1909年には、最初の著作『経済学と正義』以来の研究50周年が祝われ、世界中の経済学者から感謝のメッセージを受けた。1892年に教授職を退き、1910年、モントルー近くのクラランで死去した。
最大の著作『純粋経済学要論』は1874年に上巻、1877年に下巻が出され、これによって一般均衡理論の父と考えられている。ジェヴォンズやメンガーと並んで限界革命を導いた一人に数えられ、二人とは独立して理論を築いた。ジェヴォンズとは頻繁に書簡をやりとりした。経済学の体系は理論経済学、応用経済学、社会経済学の三つに分けた。数学は、計算のためというよりは記述言語として使われ、クールノーの影響を受けた。この理論はローザンヌ時代の弟子パレートらのローザンヌ学派に継承され、のちにレオンチェフが実際の経済に適用する道を開いた。ケインズは、一般均衡理論の想定が現実の市場から大きく乖離していると批判した。
同じ年に亡くなった人物
- アンドリュー・ジャクソン・デイヴィス (1910年没)
- ヨハン・バーラー (1910年没)
- ロベール・ドルレアン (シャルトル公) (1910年没)
- 羅一秀 (1910年没)
- レジナルド・ドハティー (1910年没)
同じ地域に関係する人物
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- Roger Mathis (2015年没)
- Paul Chaudet (1977年没)
- クロード・ピロン (2008年没)
- ザオ・ウーキー (2013年没)