伝記
クトゥブッディーン・ムハンマドは、ホラズム・シャー朝の君主である。生年はわかっていない。父はホラズムの軍事総督を務めたアヌーシュ・テギーン・ガルチャイで、ムハンマドは父の存命中にメルヴで教育を受け、文芸と宗教の学問を学んだという。フルネームは、クトゥブ・アッドゥンヤー・ワッディーン・アブル・ファトフ・ムハンマド・アルスラーン・テギーン・イブン・アヌーシュ・テギーンと伝えられる。
1097年に父が死ぬと、ホラズム地方の統治者にはイキンチが任じられた。ところが、アミール(貴族)のヤルク=タシュらが反乱を起こしてイキンチを殺し、ホラズムを自らの支配下に置こうとした。この反乱を鎮めたのが、セルジューク朝のスルターン、バルキヤールクの軍を率いるハバシ・イブン・アルトゥン=タクである。1097年ごろ、ムハンマドはハバシからホラズム地方の統治者に任命された。その後、イキンチの息子トグリル・テギーンが、遊牧のトルコ系諸部族を率いてホラズムの支配を取り戻そうと攻め込んだ。ムハンマドはそのときホラズムを留守にしていたが、すぐに戻って、この企てを阻止した。1100年には、サンジャルが率いるセルジューク軍の遠征のさなかにその側についた。ハバシが敗れたのちも地位を認められ、この年にホラズム・シャーの称号を名乗ったとされる。一族のなかで初めてこの称号を名乗った人物と考えられている。
ムハンマドは父と同じく、バルキヤールクらセルジューク朝のスルターンに忠誠を誓い続け、サンジャルにも仕えた。毎年みずからホラズムの税をまとめてサンジャルの都メルヴへ運んだともいう。彼が治めた時代のホラズム地方に政治的に大きな変化はなく、支配領域はアム川河口の三角州に限られていた。1113年から1114年にかけて、セルジューク王家の一族ムハンマド・アルスラーン・ハンが治める西カラ・ハン国で宗教反乱が起こると、鎮圧に協力した。1115年にはガズナ朝を討つ遠征に加わったともされる。1118年にサンジャルがセルジューク朝のスルターンとなると、ホラズム・シャーの称号をあらためて授けられた。翌1119年、サンジャルがイラクを支配するマフムード2世を攻めると、これに従軍した。
ムハンマドは有能な行政官で、学者や宗教者の保護者でもあった。意志が強い人物として知られ、ほかの家臣たちのあいだでも重んじられたという。文芸の保護に努め、領民から敬愛を受けた。治世に完成した学術書の一つに、医学者サイイド・ザイン・アッディーン・ジュルジャーニーが献呈したペルシア語の医学書『ホラズム・シャーの貯蔵庫』がある。この書は、イブン・スィーナーの『医学典範』と並んでよく読まれた。ムハンマドは1127年に死去し、子のアトスズが跡を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- シャルル1世 (フランドル伯) (1127年没)
- Henry (1127年没)
- エティエンヌ (オマール伯) (1127年没)
- シャルトルのフーシェ (1127年)
- Ava (1127年没)
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