HISTORICAL PERSON · 1131年没

ヴィルヘルム (ルクセンブルク伯)

ルクセンブルク伯。文書上で初めて「ルクセンブルク伯」の称号を用いた人物とされ、トリーア大司教と対立し二度にわたり破門された。

生涯
1131年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ヴィルヘルムは1081年に生まれたルクセンブルク伯である。父はルクセンブルク伯コンラート1世、母はクレマンスである。コンラートはザルムとロンウィの伯ギゼルベルトの子で、ギゼルベルトはモーゼルガウ伯フリードリヒ・フォン・ルクセンブルクの子とされる。クレマンスはポワトゥー伯でアキテーヌ公のペトルス・ギヨーム7世の娘とされるが、ビゴール伯ベルナール2世の娘とする説もある。父コンラートはトリーアの大司教とサン・マクシマン修道院をめぐって争った人物だった。伝えられるところでは、コンラートは大司教を捕らえたために破門され、償いをしたうえで破門を解いてもらうため、エルサレムへの巡礼に出た。帰路のイタリアで世を去ったのは1086年8月8日とされる。従者たちは遺体をその地で防腐処置し、2年後に妻と子らが引き取って、アルトミュンスター修道院の洞窟に葬ったという。

父の死後、伯位は兄のハインリヒ3世が継いだ。ヴィルヘルムは1093年の文書にすでにルクセンブルク伯として名が見えるが、兄ハインリヒが子を残さないまま1096年に死去すると、その跡を継いで伯位についたとされる。在位は1096年から1131年までで、記録文書で「ルクセンブルク伯」の称号を一族で初めて用いたのがこのヴィルヘルムだった。

1105年ごろ、バイヒリンゲン伯クーノの娘マティルデと結婚した。クーノはバイエルン公オットー・フォン・ノルトハイムの息子で、妻はルイトガルトとも呼ばれる。夫妻には3人の子が生まれた。長男コンラート2世は1106年に生まれ、のちにルクセンブルク伯となった。次男は父と同名のヴィルヘルムで、グライベルク伯となり、1131年と1158年の記録に名が見える。娘ルイトガルトは1120年に生まれ、1170年に没し、グランプレ伯アンリ2世の妻となった。その次男ロベール・ド・グランプレは、1208年から1217年までヴェルダン司教を務めた。

ヴィルヘルムも父や先代の伯と同じように、トリーア大司教との争いを抱えた。サン・マクシマン修道院をめぐって大司教ブルーノと対立し、1111年に破門されたともいわれ、また1122年と1127年に破門されたともいわれる。ブルーノを継いだ大司教とは、のちに合意に達したと伝えられる。1129年には母クレマンスとともにシッフェンベルク修道院の共同の創設者となった。母はこの年の二通の文書で、ゲルデルン伯ゲラルト1世の妻として記されている。ヴィルヘルムは1131年に死去し、長男のコンラート2世が伯位を継いだ。

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