伝記
ヴィルヘルム・クリスティアン・ルートヴィヒ・ディルタイは、1833年11月19日にライン河畔のナッサウ公国ビーブリッヒ北部のモースバッハ(現在はヴィースバーデン市の一部)で生まれ、1911年10月1日に没したドイツの哲学者・心理学者・思想史家である。父マクシミリアンはナッサウ公国の宮廷牧師で、教会参事官を務めた。母ラウラは、作曲家カール・マリア・フォン・ヴェーバーの最初の先生でもあった宮廷楽長ヨハン・ペーター・ホイシュケルの娘である。ヴィースバーデンのギムナジウムを修了後、法学を志したが、父の意向を尊重して神学の研究を選び、ハイデルベルク大学に入学して、私講師クーノ・フィッシャーに師事した。ところが、同大学の保守反動化に嫌気がさしたこともあり、ベルリン大学に転じて、哲学や歴史学や神学を学び、ランケやドロイゼンらの講義を聴いた。
その後、ベルリンのギムナジウムの教師、文芸評論や書評の執筆者などを経た。1864年には、シュライアーマッハーの倫理学に関するラテン語の論文で博士号を受け、同じ年に教授資格も得て、ベルリン大学の私講師となった。1859年にはシュライアーマッハーの書簡集を編み、その伝記の執筆も依頼されて、第1巻を1870年に刊行した。1867年にバーゼル大学の員外教授に就任し、ブルクハルトの知遇を得た。その後、キール大学、ブレスラウ大学の教授を経た。ブレスラウ時代にパウル・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク伯爵との交友が始まり、その交情はヨルクの没年まで続いた。1874年にカタリーナ・プットマンと結婚し、一男二女をもうけた。1882年、急逝したヘルマン・ロッツェの後を襲って、ベルリン大学教授に就任した。
翌年に主著『精神科学序説』第1巻を刊行し、1905年の退官まで精力的な教授活動を行った。自然科学が隆盛した時代に、「精神科学」の基礎づけを試み、その学的方法論に寄与する論文を数多く発表した。自然科学が自然を観察して説明するのに対し、人文学は人間の生の表現を理解するものだと考え、生・表現・理解の体系的な関係に基づくものを精神科学の一部と見なした。彼は人間を歴史的な存在と捉え、「歴史」を、過去の対象ではなく「世界観の連なり」と考えた。心理学では、記述的・分析的な心理学を標榜し、その流れは了解心理学となり、カール・ヤスパースの精神病理学の基盤にもなった。
生前はむしろ精神史家としての名声を得て、『シュライアーマッハーの生涯』『ヘーゲルの青年時代』『体験と創作』などを残した。1905年刊行の『体験と創作』は、それまでアカデミーの内部で有名であったディルタイの名を広く知らしめ、「体験」の語は当時の流行語にもなった。哲学的著作は、生前に刊行された『精神科学序説』第1巻のほかは、多くがベルリン・アカデミーの報告に収録された論考である。弟子には、ゲオルク・ミッシュ、ヘルマン・ノール、テオドール・リット、エドゥアルト・シュプランガーらがいる。マルティン・ブーバーも弟子の一人で、ディルタイが南ティロルのザイスへの避寒旅行中にコレラに感染して亡くなったとき、ベルンハルト・グレートゥイゼンとともに同道していた。ディルタイ・アルヒーフは、弟子たちの縁でゲッティンゲン大学に置かれている。
同じ年に亡くなった人物
- アルベルト・ラーデンブルク (1911年没)
- ゲオルク (シャウムブルク=リッペ侯) (1911年没)
- ハインリヒ・フェルディナント・ホフマン (1911年没)
- ポール・ラファルグ (1911年没)
- アレクサンドル・ギルマン (1911年没)
同じ地域に関係する人物
- ルートヴィヒ・フォン・デア・タン=ラートザムハウゼン (1881年没)
- マインハルト1世 (1258年没)
- アルフレート・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ (1899年没)
- フェルディナント・カール・フォン・エスターライヒ=ティロル (1662年没)
- フェルディナント・ティーマン (1899年没)