伝記
カール・フリードリヒ・マイは、1842年2月25日、ドイツ東部ザクセン地方の小さな織物の町エルンストタールで生まれた小説家である。父は貧しい織物工で、生家もみすぼらしく、14人の子のうち9人は2歳までに死亡したという。5番目の息子カールだけが乳児期を生き延び、幼年期から「童話の祖母」に育てられ、その影響もあって、物語の語り部として特異な才能を示した。父は自分の夢をこの息子に託し、英才教育を施した。はじめは各種童話や薬草本、絵入り聖書などを濫読させられ、後には完本の聖書を初めから終わりまで繰り返し読んだという。ギムナジウムから大学への進学を切望したが、一家に経済的余裕がなく、負担の少ない師範学校へ進み、教師となった。
しかし当時のドイツの学校は、教師や生徒に厳しい規制や拘束を課しており、自由を求めてやまない気質の彼は、しばしば軽犯罪をおかして、不当とも思われる重い禁固刑を受け、更生施設や刑務所での生活を余儀なくされた。それでも、施設内の図書館を自由に利用でき、あり余る時間の中で多読濫読の贅沢に恵まれた。その間に、哀れな現実を逃れて想像の翼を広げられる夢の世界を、文章の力によって築くことを、一生の課題と定めた。1874年に刑務所を出ると、故郷の両親のもとに帰って執筆を始め、その後、編集者の職を得た。しばらくのちフリーの作家として自立し、1878年にエマ・ポルマーとともにドレスデンへ移り住んだ。1879年にカトリック系の週刊誌と契約し、アメリカ西部を舞台とした冒険物語を書き始めたことが、人気を決定づけた。生活に余裕ができ、1880年にエマと結婚した。
1891年、南ドイツのフェーゼンフェルト社が、それまで雑誌に発表してきた世界冒険物語を、個人全集の形で刊行する申し出をした。最初にオリエントのシリーズ6巻が1892年に刊行され、やがて33巻で完結した。1895年には、ドレスデン近郊のラーデボイルの高級住宅街に豪邸を購入し、作品の主人公で、アメリカ西部の英雄である自分自身でもあったシャターハンドにちなんで、「ヴィラ・シャターハンド」と名づけた。シャターハンドは自分自身であり、語られる冒険は自ら体験したものだと主張した。書斎を、野獣の毛皮や猟銃、アラビアの水煙管などで飾り立て、各地で読者と交流し、オーストリア皇室やバイエルン王室にも呼ばれた。経済的な基盤を築いたのち、作品の主な舞台である中近東へ、1年4か月に及ぶ大旅行に出かけた。しかし実際に見た中近東は、築きあげてきた「虚構の中近東」とかけ離れており、強烈な心理的衝撃を受け、孤独な旅の間に二度、精神的な病にかかって療養した。
晩年の十年余りは、生活も作品も以前とは異なるものとなった。英雄的主人公に成りすます生活態度を捨て、帝国主義や植民地主義に反対して、作品は平和主義に彩られた。帰国後最初の作品『そして地上に平和を』は、ノーベル平和賞受賞者のベルタ・フォン・ズットナーとの結びつきをもたらした。最初の妻エマと離婚し、亡くなった親友の妻クラーラと再婚した。一方、初期の作品が「俗悪小説で、青少年に悪い影響を与えた」と、カトリック関係者や教育関係者などから攻撃され、長い裁判沙汰に疲労困憊したが、最晩年にこの裁判にも勝利した。1912年3月、ウィーンで二千人の聴衆を前に講演し、拍手喝采を浴びた。その1週間後の3月30日、ラーデボイルの家で、妻クラーラに付き添われて静かに息を引き取った。その作品は、ドイツでは聖書に次ぐ発行部数に達し、日本語を含め43の言語に翻訳されている。
同じ年に亡くなった人物
- ウォルター・ウィリアム・スキート (文献学者) (1912年没)
- トマス・アンシュッツ (1912年没)
- ハインリッヒ・ゲルバー (1912年没)
- フレゼリク8世 (デンマーク王) (1912年没)
- アラン・オクタヴィアン・ヒューム (1912年没)
同じ地域に関係する人物
- リリー・エルベ (1931年没)
- マグダレーナ・ジビュレ・フォン・ブランデンブルク=バイロイト (1687年没)
- ゴットフリート・ジルバーマン (1753年没)
- ハインリヒ・ゴットリープ・ルートヴィヒ・ライヘンバッハ (1879年没)
- エルンスト・フォン・シューフ (1914年没)