伝記
ジョゼフ・リスターは、1827年4月5日に、ロンドン近郊のエセックス州ウェスト・ハムで生まれたイギリスの外科医である。裕福なクエーカー教徒の家に生まれ、父ジョゼフ・ジャクソン・リスターは、ワインの商人で科学の愛好家であり、顕微鏡用の色消しレンズの製造の先駆者でもあった。のちに初代リスター男爵に叙せられ、メリット勲章、王立協会のフェロー、枢密顧問官にもなった。フェノール、つまり石炭酸による消毒法の開発者として知られ、近代外科の父とも呼ばれる。1860年からグラスゴー大学で、1869年からエディンバラ大学で臨床外科の教授を務め、1877年にはロンドンに戻って、キングス・カレッジ・ロンドンの臨床外科の教授に就任した。
当初の彼は無名の外科医にすぎなかった。当時のヨーロッパでは、パスツールが汚染と腐敗の関係を発見しており、センメルヴェイスは、医療者の汚染した手によって産褥熱が伝染することを見いだしていた。イギリス国内では、ナイチンゲールが新鮮な空気や清潔な環境の重要性を説いていた。センメルヴェイスもナイチンゲールも、医学の主流からはまだ非科学的とみなされていた時代である。しかし、小さな手術でさえ術後に「手術熱」と呼ばれる感染が起き、死亡率が高いことに悩んでいたリスターは、これらに注目した。彼はそれらを総合して、術後の創傷の化膿は細菌による汚染だと考え、術野や手術用具を石炭酸で消毒することにした。
1865年、グラスゴー王立病院に、馬車にひかれた11歳の少年が、脛骨の開放骨折で運び込まれた。当時、開放骨折の予後は極めて悪かったが、リスターは石炭酸を染み込ませた包帯で少年の足を覆い、定期的に交換した。すると傷は化膿せずに完治した。その後10例の開放骨折でこの方法を用い、8例で成功し、1867年に医学雑誌「ランセット」に「複雑骨折および膿瘍の新治療法」という論文を発表した。しかし、消毒薬の正しい使い方がまだ確立されていなかったため、他の医師による追試の結果は惨憺たるものだった。彼が無名だったことから、この方法は注目を浴びず、産婦人科医のジェームズ・シンプソンからも反対を受けた。それでも彼は臨床試験の結果を淡々と重ね、石炭酸を術野に噴霧する方法を考案した。1868年には、動物の腸から作った糸をクロム酸で処理した、耐久性のある吸収糸を開発した。これは今もクロミックカットグットとして世界中で使われている。この消毒法と吸収糸により無菌手術を実現し、1869年8月にエディンバラ大学の教授に就いて、この地でも敗血症を激減させた。
やがて業績が認められ、1883年にヴィクトリア女王から準男爵の称号を授けられた。その後、空気中から落ちる菌はごくわずかで、接触感染のほうが問題だと分かり、1887年に噴霧法を中止して、現在の無菌操作とほぼ同じものとなった。1895年には王立協会の会長に選ばれ、1897年にはライム・リージスのリスター男爵に叙せられた。1902年、国王エドワード7世が虫垂炎の手術にあたって、彼を執刀医に指名した。当時は、虫垂炎でも手術による死亡率が高かった。1912年2月10日に肺炎で死去し、盛大な国民葬で送られて、ウェストミンスター寺院に葬られた。細菌のリステリアは、彼を記念して名付けられたが、彼自身はこれには関わっていない。
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